TRPGについての対話


先日http://kanata-a.hp.infoseek.co.jp/のかなたさんと、ただTRPG(会話で架空世界のキャラクターとなって遊ぶゲーム。テーブルトークロールプレイングゲームの略)とりプレイ(TRPGを遊んだ様子をト書きのシナリオのような形で再現した読み物)についてしゃべるためだけに集まり、バーミヤンで3時間半くっちゃべった。


そこで喋ったことが―思いつきの暴論が多いとはいえ―自分のTRPG観をかためていくうえでなかなか面白かったので、メモ風に日記に残しておく。

  • 経済的に文庫中心でTRPGにふれていると二大巨頭はグループSNEとF.E.A.R.になる。個人的にはSNEが好きだが勢いあるのはF.E.A.R.な気がする。
  • 両者の作風の違いは大塚英志のいう自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズムの対比に類比的な気がする。SNEは昔も今も海外ファンタジーやSFなどの翻訳に力をいれていて、それらは基本的には現実を写しとったようなリアリティを重んじるリアリズムの文体の上で、架空世界を描いているように見える。SNEは自社作品にもそれらの世界観を反映させているので、比較的マンガ的表現というよりは自然主義的リアリズム的な傾向があるのでは。対してF.E.A.R.は、菊池たけしの「みんながいいと言ってるものはいいんだよ」という名言に象徴されるように同時代の隣接ジャンルの流行をよくとりいれ、文庫で読んできた身からみると、それで台頭してきた感がある(ラブコメMMOセカイ系決断主義など)。社長の鈴吹太郎の作品などがF.E.A.R.的作品の源流だと思うが、それらはまんが・アニメ的なリアリズムで作品世界を描いているように見える。
  • 自分は感性が保守的なのか、自然主義的なリアリズムがベースにあったほうが肌にあう。そのためか一番好きなTRPGはガープス
  • 矢野俊策の作品についてはその実力はすごいと思いつつも、目の前にいきなり逃れられない危機や問題があったら何を守り何を切り捨てるか決断しなければならない、そのことで甘えや夢想をこちらの都合でとまらず急速に迫ってくる現実のまえで捨てることが成熟だといった感じの決断主義的な価値観がなじめなくて個人的には苦手である。これも広い意味での文芸が時代を反映するというやや古いがいまだに強くある考え方からすれば、どうも90年代からネットによって可視化され盛り上がったナショナリズムや排外主義的な考え方と近く、それらを背景にリアリティをもっているようなものに見えるからだと思う。
  • SNEは同時代の流行をとりこむことについては中堅、若手はそれなりにとりいれているが、全体としてはわりと保守的な感じがする。それは個人的には好ましい。しかしガープスの展開が乏しいことなどからなかなか今の状況には厳しいのだろうかとも思う。
  • セイクリッド・ドラグーンやエムブリオマシンでもいいしドイツなどのボードゲームの継続的紹介などSNEの作品はゲーム、ロールプレイ、作品世界等々の要素のなかでもっとも原始的なサイコロをふるとかのゲームの単純な快楽を重視しそれの新しい形式を提出しようとしているものが多い気がする。エムブリオマシンのプロッティングやセイクリッド・ドラグーンのダイスの目をいれかえながら進めるシステムなど作品世界よりも焦点をあてられて語られている印象がある。
  • SNE若手の一押しは番棚葵。かなり文章力がある人な気がする。聖女三部作の「ときめくことで、きらめくあたし」とかPCの設定の下手な詞を実際に書いてたが、うまい人がわざと下手に書いた感じでよかった。
  • TRPGは大きくキャラクター/プレイヤー/ゲームの三つのそれぞれ重なりつつ独立したレベルの領域があってそれらの協働や剥離のバランスが自分にとって一番面白いところだと思う。アリアンロット・サガの大竹みゆがキャラクターとしてはイノセンスなお姫様を演じているのが、プレイヤーはゲームの領域の戦闘での優位さを追求することに一番重きをおいているので、敵の殲滅しようとするときの行動とキャラクターロールプレイの食い違いがでて、それが面白かったりする。2ちゃんでそれを「殺意の高さ萌えという新たな萌えを発明した」と書かれてて笑ったが、それなども違う複数のレベルを一人の人がプレイしていくことで、どれかだけでは生まれない新たなものが生まれるみたいな創造性の例として挙げられるかもしれない。
  • 多くのプレイヤーとしての見果てぬ夢は、そのようなキャラクター/プレイヤー/ゲームを有機的に重ね合わせることで全てにおいてどれかだけでは生まれなかった素晴らしいプレイをしてみせることではないか。最近の例で見事だったのはアリアンロッド・サガ・ブレイクの久保田悠羅のGMの城がキャラクターという設定を逆手にとって、ゲームのルール解釈から、キャラクターが移動するスキルを適用させて、城が空を飛んで移動するというシーンを演出したものだと思う。これはあくまでアリアンロッドのルールをメインで作成した久保田悠羅というプレイヤーがゲームのルールの中でもっとも効率よくミッションをクリアできる方法を探した結果、キャラクターレベルの作品世界内においてもGMの想定していた解決策よりもずっとドラマティックな結末を導いたという意味で理想的なもののひとつだと思う。古くは人気爆発のソードワールド第三部のスイフリーのルール上で有利なことをみもふたもなく追求する(それもかなり重要な戦闘などであざやかな形でなしていたのが人気の理由だったと思う)姿勢が「人間化したエルフ」「ダークエルフ化したエルフ」等のキャラクターの性格設定にも反映されていったことなど。
  • このあいだのオンラインセッションについて。F.E.A.R.作品だとわりと情報収集判定などははじめにこの3つのことが調べられるみたいなメタ情報をGMが伝えてくれて判定後に演出するみたいな形でセッションをスムーズにすすめようとするという印象があったので(かなたさんよりそういうものばかりでないとの指摘あり)、そのときのGMは判定するためにキャラクターが何をどう調べるかの論理的な道筋をプレイヤーにきちんと考えさせていたのが面白かった。自分はそうやって自分で頭つかって考えるのは好き。しかしこれはセッションに迷走や停滞をまねきがちで実際長引いてしまった。自分は面白かったからいいが。また盗み撮りをしていたカメラマンをプレイヤー皆で威圧的に情報源を吐かせようとしたことについて、GMがモラル感覚的なところからいかがなものかという反応があり、それに気づいて途中から土下座して泣き落とし方面の交渉にきりかえた。これは自分はライトノベルやTRPGリプレイではシナリオにとって重要でない小物的なNPCにはわりと威圧的にせまって情報をとるのが普通な印象があったので、セッション進行を早めたいためもあってそうしたが、GMのモラル感覚にあわなそうだったので、皆が楽しめるが第一義の目的であるという大前提にしたがって交渉の仕方をきりかえた。まあこれはこれでよかったんじゃないかと思うが・・・・・・。これについてGMに「ここでは現実にそうしたらどうかを基準に裁定する」というメタ情報が最初にほしかったとか、プレイヤーにちゃんとその辺を読み取って適切に行動しようとか、お互いにハードルを上げあってもあまりよくないと思う。それをすると要求水準が高くなることで皆が楽しむという一番重要なことがむずかしくなりそうな気がする。結局手探りでお互いの意図を探りあいながら、すりあわせていくのを正解とするのがいいと思う。ただこれも個人的には頭を悩ませるのが面白かった。こういう交渉はご都合を排すると、シナリオにとってさほど重要ではないのに複雑で難しいものになりがちだから、適当にさっさと情報出してしまうのがわりと一般的だとは思うが(かなたさんもそうするといっていた)、フォーカス判定までなって色々考えたのはあのセッションであとから思い返して一番知的(おおげさだが)な充実感があった。
  • 上記の自分で考えさせるマスタリングや、GMのモラル感覚がでた交渉のご都合にたいする違和感など、自分にとっては「F.E.A.R.システムの上で清松GM」のセッションをしているような感じだったというのが総括。もちろん私はかなたさんと一緒で清松信者(笑)なので、とても面白かった。ただ時間長くて疲れた(笑)次回五郎さんGMのオンセは、精神は楽しみなのだが、肉体が若干の拒否反応を今示している(笑)
  • そこから清松の話へ(笑)こうしてまとめていくと雑談的なとっちらかりがよくわかる。自分にとってのベスト・リプレイは清松みゆきのアンマント財宝編で、これは普通だとワースト・リプレイの候補に挙がってくるのが普通だと思う。しかし私はここで清松が、やや客観性に欠けるのではと思わなくもない怒りでセッションを失敗に裁定したあとのコラムで書いている「ゲームの楽しさは考え抜くことにある」という信念吐露はいまだに自分がTRPGをやるときの基準でありつづけている。それは自己演出など自由にできるところを派手にやるようなF.E.A.R.的な演出とも少し違って、上記でプレイヤーの夢と書いたようなゲームのルールに慣れ、それの上手い運用と、プレイヤーとしての様々な先読みやこんな展開やテーマ性を表現したいという思惑と、キャラクターの架空世界内の性格と行動が、すべて歯車をかみあわせて、どれかだけよりも圧倒的にすばらしいものを表現しうるということだと思う。清松のエムブリオマシンリプレイで秋口ぎぐるが清松セッションでの「知的興奮」について語っていたが、自分にとって清松の「ゲームの楽しさは考えぬくことにある」という信念は、自分がTRPGにひかれる「知的興奮」の理由を上記の解釈をともないつつ一番よくいいあててる気がする。だから(かなたさんはまた別の理由だろうが)いまだに清松信者をやめられないというオチ(笑)アンマント財宝編ではそのミッション失敗のあと清松が逆ギレ的に、さまざまなタイプの交渉をプレイヤーがうんざりしてるのもかまわず考えさせて、お互いの合意点、妥協点をさぐらせるようなセッションをしてて、それもすごい。自分がGMのときはけっしてやりたくないが(笑)
  • GMの話。かなたさんのGMスタイルはマッサージ的な感じがする。プレイヤーの自主性はなるたけ活かし、破綻しない程度の適度な負荷をかけ、全体として持続的にプレイヤーに快適な(適度に負荷な)刺激を与えていくような感じ。かなたさんは多くセッションをやって失敗しないようにしていくとそうなるみたいなことを言っていた気がする。実際、セッションを最近やらしていただいていて、思ったより毎回のセッションで失敗したくない、キャラクターを死なせたくないみたいな気持ちがやってると強いのには驚いた。やる前は全滅とか面白いじゃんとか思っていたのだが、いざ自分の休日の時間を割いてセッションをするとやはり成功して気持ちよく終わりたいと思う不思議。かなたさんはそれがわかってるからあまりハードなバランスにするより上記のようなやり方をしているのかと思ったり。また鉄牛さんにこないだの飲みで、自分のキャラクターは必ず負け組にしたい、しかしGOKさんにその動機をきかれ、そこはつきつめると痛くなりそうだからあまり掘らないでおきたいとか言ったのを思い出す(笑)それで自分はずいぶんGMしていないが、したら「こいつ自分の思想語ってね?」的に思われそうでこわいみたいな話に鉄牛さんがいやそれでいいんだよ、と言われたのにとても勇気づけられた(笑)飲み会はそのあたりの会話が超印象にのこってる。鉄牛のさんのGMは一度しか体験してないがそれも上記的な意味でもとても面白かった。NPCが目立ちすぎたとか気にされてた気がするが、いやあれであれがいいと連呼したい(笑)
  • 自分は今1対1でガープス現代社会(笑)という独自のセッション一回したが、25CPの一般人でつくって超常的な現象を一切なくすとガープスのルールほとんど使わなくなってそれはそれでもったいない気がする。戦闘もほぼないので、色々かなたさんに戦闘なしで盛り上げる独自追加ルールのアイデアを相談する。色々アドバイスもらいつつ、とりあえず実際のセッションの様子とかみないとわからんから一回やったやつリプレイにすべしと指導(笑)がんばって書いてみたい。
  • この辺から自分はお酒飲んでないものの、だんだん変なテンションで妄言がましてくる。友野祥の『バカバカRPGを語る』に二人で架空のデートプランをたて親密になっていくゲームが紹介されていて、これを綺麗な装丁であなたと彼との愛称がわかるみたいな売り文句で一般書で出したら売れないかみたいなことが書いてて、TRPGやリプレイは広い意味の文芸として、上記のような複数のレベルの世界の共存を表現できること、他者の声を自分の世界に組み込み共同でつくれること、どこまでも難解かつ複雑な展開も可能でありかつGMのようなわかりやすく説明する任をおった語り手があり、高度化や洗練のはての自閉性という過去の文芸ジャンルのたどった軌跡を、その作品の高度なところを再現しつつ、それをみもふたもなく一般にわかりやすく説明する機能も共存している、等々の理由でTRPGやリプレイという表現形式は21世紀の文芸のエッジをになう(笑)だからファン以外の領域にも積極的にアピール展開していくのに賛成とか云々。
  • そんな放言から自分が大学で文学研究なんぞをやっていたこともあって、なぜか表現論的な流れへ(笑)なんか書きながら若干自己嫌悪におそわれつつある(笑)なんとなく、学問や評論ではこぼれおちる世界のすべてや真実を文学は書きうる、とか文学者はある種の個人の内面を掘り下げることで普遍性に到達し、戦争や差別などに対抗する人の個人の固有的な価値を称揚するみたいな古いかもしれない考え方がしかし今もあって、そういう観念がもっとも多く共有され文学に対する希望が強くもたれていたのは戦前だったような感じが自分はしてる。しかし大戦の未曾有の悲惨を前に文学はそれを止める力も何もなかったという幻滅や絶望があり、そこで作品のテーマや内面性、時代の反映を読むみたいな考え方が一回死んだというか、それの価値を信じられなくなった人が多くでた時代がきた、と。
  • その後しかしある種の文学にたいする執着をあきらめならない人たちが『マラルメの創造的宇宙』なんかの本にあるような、マラルメの詩に噴水がでてくると、それを下から上につきあげるエネルギー、とか扇形とかというイメージと読み、マラルメのさまざまな詩にその下から上につきあげるエネルギーや扇形のイメージがくりかえしあらわれるのを読んでいく、とかバロウズという作家が週刊誌とか新聞などの雑多なあちこちの本からその中のほんの一文をつなぎあわせて、詩なんだか文意とおってるんだがよくわからない文章をつくるカットアップという手法を開発するなど、いわゆる主題や作者の思想や内面の掘り下げとか時代の反映とかの従来の文学観を排して、なおすごいと人に思わせうる文学性を現代文学は展開したりした(もちろんその観点から古典も読み直される)。
  • 自分はその辺にすごいインパクトをうけ、いまだに自分なりにそれをうまく言葉にしたりしたいとか考えているので、現代の作品も単に主題性や時代の反映が売りにみえるようなものは今ひとつという感じがする。十代向け文庫のゲーム紹介作品でしかないともいえるリプレイなんかにいれこむのもそういう形式の新しさを感じたりするからだ。ちなみにそういう意味でリプレイライターでもっとも現代的な表現をしてるのは菊池たけしだと思う。隣接ジャンルのとりいれや、自分の本をマンガのようなスピード感で見せる手法、ワンパターンといえばワンパターンな話をその都度ネタやギミック等の強度でなりたたせていく力業など、「すべての物語は語られた、あとはそれら既視観にまみれた要素をいかに組み合わせるか」と通俗的にいえばそういう前提でうごいている現代の表現の問題を一番受け止めているリプレイライターな感じはする。
  • とはいえそういう「現代的表現」すらも時代遅れになってる感もあり、結局は文芸はルネッサンス的(古い新しい関係なくいままで蓄積されてきた表現のさまざまな要素をフラットにみて組み合わせながらそれら多くを復活させていくみたいなニュアンス)に復活していくしかないんじゃないかというのが自分の見立てで、そういう意味でもある程度保守的に、つまりかつての文芸の価値の主要なものだった要素も捨てずに保っているSNEが自分は好きみたいな話になる。そういう意味で今はテーマや作者の思想や内面掘り下げや時代の反映や、それらを相対化するようなさまざまな批評的な表現形式等が一回フラットになって一からその機能や威力がためされ問い直されているような感じがする。そういう意味でもそれらすべてを包含し、新たな要素(他者の声の直接的導入など)もくわえうるリプレイは(以下略)


だいたいこんなところだったろうか。しかし・・・最後の方は酔ってるなぁ(苦笑)もちろんかなたさんからも色々大変面白いお話がきけたのだが、自分が書くのもなんなので。とりあえずガープス現代社会がんばるぞー(失笑)