後藤雅洋『ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか』


[研鑽]では一冊の本を中心に後から考察で使う引用を列挙しながら書いて考えていく。


大学の時からジャズや音響系の音楽などに詳しい音楽通、あるいは音楽スノッブの方々に対して、違和感と畏敬の念を持ちつづけた。


違和感は「なぜこんなに偉そうなのか、別の音楽ジャンル・聞き方に狭量なのか(と自分が勝手に読み取ってしまうこと)」、畏敬の念は「人生の時間を大量に使ってあるジャンルの音楽を聴きこみ、その知識と音源を伝えてくれていることへの尊敬と恐怖」となる。


その違和感と畏敬の念をどうにか一人よがりでない形で言語化したいというのが自分の中で大事な課題で、この本もそういう興味から図書館で手にとった。


題名がいい。『ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか』、まさに私が抱える音楽スノッブの人達に対する気持ちそのままではないか。この中には自分の気持ちを代弁し、明察を与えてくれる言葉があるかもしれない。期待をしながら前書きを読んだ。

ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか」といわれても、自分じゃそのつもりがないので困ってしまうが、一方で、人の見る眼がその人物の正体、というのも本当だ。
考えてみるに、やはりジャズが好きなのだと思う。ジャズ喫茶を商売だと割り切れない。だからつい、いらぬことをいってしまうので、「威張っている」と思われるのだろう。
しかし昔は当たり前だった。
「ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか」


ぐぎゃあ、と心の中で叫んだのは言うまでもない。偉そうと言われることに対しての反省なし!自分全肯定!しかも「昔はよかった」的な自分の青春時代特権化!私の中で最悪の分類に入る言葉の連続で、最初はアレルギー反応が強すぎて借りなかった。


しかしどうも気になるので意を決して借りて通読した。すると自分が考察して正当化したい音楽の捉え方・享受の仕方と正反対のまっとうなハード・リスニングのスタンスをわかりやすく、てらいなく言い切っていて非常にためになる本だった。


著者は四谷にあるジャズ喫茶「いーぐる」の店長であり、ジャズ評論家でもある。ジャズ喫茶という独特な空間とその果たした役割を著者は以下のように言う。

レコード(いまではCD)でジャズを聴かせる喫茶店。ジャズ喫茶はそうした不思議な空間として、日本に(だけ)根を下ろした。長い間一般の音楽ファンは生の演奏を聴く機会に恵まれなかったことが、そうなった大きな理由だろう。輸入文化の国・日本の宿命である。
もう一つ、レコードの値段が相対的に高く、再生装置はそれに輪をかけて高額だったという事情もある。評論家が新譜を紹介しても『サキソフォン・コロッサス』のような現在なら誰でも知っている基本アルバムですら、かつては入手が難しかったのだ。
ジャズ喫茶はそうした状況の中で必然的に生まれ、「ジャズとはどういう音楽か」をファンに知らせるために多大な役割を果たしてきたと思う。名盤、新譜の紹介を通じたジャズ・シーンの形成は、ある時期(一九六〇〜七〇年代)まではほとんどジャズ喫茶を通じて行われてきたといっても過言ではない。
「ジャズ喫茶の存在理由」


この本は2003年初版だが、著者は今でも、あるいは今だからこそこのようなジャズ喫茶が必要とされているという。その理由になる著者のジャズのあるべき聴き方のスタンスを示すのが以下の諸文章である。

たとえばここに、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デヴィ』というアルバムがあるとする。極めつけの名盤だけに、雑誌片手の「ながら聴き」でも、メロディの美しさは十分にあなたを満足させてくれるだろう。
しかし試しにちょっとだけ注意を集中し、エヴァンスのピアノの細かいタッチにも気を配ってみよう。すると、一見美しいだけと思えたメロディが、実はとてつもない緊張感を孕みながら生み出されているのに気がつくだろう。これが「演奏の力」とわれわれが呼んでいるものだ。こればっかりはいくらメロディ・ラインをコピーしても、ダメなミュージシャンの演奏からは聴こえてこない。
つい最近も、「イヤー、ちゃんと聴くと全然違うわ」、とお客様からお褒めの言葉を授かった。音楽をきちんと聴く、という最初の一歩を思い出してもらうためにジャズ喫茶はあるのだ。
「『いーぐる』日記」

総じて優れたジャズの演奏には、聴き手を閉じ込められた状況から引っ張り出してくれる働きがある。効用を否定しておいて矛盾した言い方だが、これはアート一般が持っている本質ではなかろうか。
音楽を聴くという行為は、自分の気持ちを演奏の中に見つけ出すのではなく、違う次元の感覚に身を委ねることだ。だからこそ、人は音楽によって現状を乗り越えることができるのである。
『いーぐる』日記」

ウォークマンに始まる「個人オーディオ」の発達は、誰にも邪魔されない「音の個室」をつくったものの、同時に「音楽を通じた感覚のコミュニケーション」の可能性を狭めてしまったのではないか。
ジャズ喫茶では誰もが同じアルバムを聴く。そういう空間では口に出さなくても他人の気配が伝わるものだ。巧みな選曲によって生まれる場の濃密な凝縮感、期待外れなアルバムに対するダレた感触。
こうした経験は自分の感覚、好みを相対化させてくれる。独りよがりではないクールな視線を身につけることができるようになるのだ。他人に左右されるのではなく、他人の視点を経由した上で自分の価値観を見つめなおす絶好のチャンスといえよう。つまり、感覚の鍛錬である。
「ジャズ喫茶の存在理由」

「共通体験の場」としてのジャズ喫茶は、また情報の発信源でもある。(中略)
こうした情報発信機能を生かす試みとして、僕は自分の店「いーぐる」で、ここ10年ほど連続講演をやっている。評論家をはじめ、ジャズ界で活躍するさまざまな方をお招きし、自由なテーマでアルバムをかけながら講演をしてもらうのだ。
ルールは二つだけ。出した音に説明を加えること。発言したことは音で示すこと。あえて音楽を言葉にすることによって、他人との感覚の違いを明確にし、演奏に対する評価の土俵をつくろうというのである。
「ジャズ喫茶の存在理由」

六〇年代のジャズの受容はどう考えてもフラットではなかった。ひと言でいってしまえばメディアの限界、情報不足ということだが、ほぼレコードだけに限られていたジャズの情報は多様な屈折を生んだ。(中略)
こうした認識不足がさまざまな「神話」を生む。(中略)
ジャケット写真がミュージシャンへの過剰な思い入れに向かう回路を設定し、空間としてのジャズ喫茶がジャズの「神話作用」を増幅する装置の場として大きな役割を果たしていた。暗めの照明、異様な室内装飾、巨大な音響が、いわば「非日常的空間」としてのジャズ喫茶を演出していたのだ。人と、場と、(欠落した情報としての)音の組み合わせがセットで「ジャズ」だったのである。
その「ジャズ」はもはや音楽を超えてしまった何物かなのだが、受け取るほうはこれこそがジャズだと信じ込む。そのギャップにジャズマン伝説がはびこるのだ。ビリー・ホリディは絶対に「悲劇の主人公」でなければならず、バド・パウエルは「狂気の天才」に決まっていた。
「ジャズマン伝説とジャズ喫茶」

聴衆の想像力が音そのものではなく、これまた貧弱な活字情報から養分を得てジャズ伝説へと向かうメカニズムは、結果として音楽の疎外へと向かう。
音から受け取った想像力が、音それ自体のイメージの深化や広がりとしてではなく、「言葉」からフィードバックされたさまざまな「観念」によって恣意的に解読される。もとより音響なるものは厳密な意味での「意味」の伝達が不可能である以上、こんなやり方は文学作品でいうところの「生産的誤読」ですらないのは自明のことだろう。
「ジャズマン伝説とジャズ喫茶」

●身体と意識が融合する瞬間に見えてくるもの

楽理分析にしろ、彼の音楽の「背後」にすべての答えを求めようとする姿勢こそが問題だ。ジャズとはすぐれてその場の出来事ではなかったか。なぜパーカーの音楽を演奏そのものの内にとらえようとしないのか。
演奏しつつあるパーカーの身体とともに、演奏の時間の内に、演奏そのものの秘密を掴みとること。これこそが彼の音楽の本質に迫る唯一の方法なのである。難しいことでもなんでもなく、ただ彼の音楽を聴く、それだけでいい。そして音の流れに身を任せ、その中に入り込むのだ。
最初はうまくいかないかもしれない。いろいろな雑念が押し寄せ、「音を聴いている自分」ばかりが意識される。主体(自己)と客体(音)が対立している状態だ。しかしそのうち「音を聴いている自分」という意識がなくなり(主体の消滅)、ただ音だけが存在するようになる。五分で済むか五年かかるかは人によるだろう。
音楽的感動の体験とは、まさしくこうした境地に達することであり、それは反省的意識の手前にある名づけようもない経験である。
こうしてパーカーの音楽と一致できたとき、見えてくるものがある。それは主客対立の一瞬の乗り超えであり、進退と意識の融合の感覚である。そしてこれこそが、パーカーの音楽の単純にして深遠な秘密なのである。
「音楽と一体化することの名状しがたい感動」

最晩年、マーカス・ミラーにすべて任せてしまった作品の中には「こんなのジャズじゃないよ」、と喉元まで出かかるものもあるけれど、それも含めて、マイルス自身の音楽には(本人がなんといおうと)抜きがたい「ジャズ性」がある。
それを具体的に述べよといわれると大変に困るが、傲慢さを承知でいえば、自分が三〇年間ジャズと呼ばれる音楽を聴いてきた中で無意識のうちに培った、類概念構築能力によって判断した結果としかいいようがない。
「類概念構築能力」などというといかにも難解だが、人間は誰でもこの能力を持っている。だから限られたサンプルしか与えられなくとも、未知の同一範疇のものをそれと識別できるのだ。現実に見たことのある犬や猫の数はたがが知れているはずの幼児でさえ、未知の種類の犬や猫を見て、「これは犬」「これは猫」とキチンと「類」を識別できるように。適切なサンプル数が増えれば、能力が増すであろうことは言うまでもない。
「オレの音楽を『ジャズ』と呼ぶな」

ジャズは黒人音楽だが、もちろん白人のジャズマンも大勢いる。そもそも黒人、白人なんていう差別とも誤解されかねないいい方を、ジャズではなぜいまだにしているのだろうか。
それは、人種による音楽の味わいの違いが顕著にあるからだ。(中略)
ジャズ・ファンにとって「黒っぽさ」というのは大変な魅力なわけだが、そのニュアンスを言葉で伝えるのが難しい。やむを得ず白人音楽との対比で示せばこんな具合だ。すべて後者が「黒人的なもの」である。
サラッとした感じに対して、コテコテ。軽やかさに対する重量感。明るい透明感に対しては、ちょっと濁っていてダークな色調。蕎麦に対する豚骨ラーメン……。要するに、日本人の日常生活からちょっと距離のあるコッテリ感覚だからこそ、僕らは憧れを感じるのかもしれない。
「『いーぐる』日記」


多岐にわたって論じられているこれらの文章を貫く土台となっているのが、静かに流れる音だけに集中して聴く、そこで得られる音・音楽・演奏そのものの快感こそがジャズで聴かれるべきものである、という認識である。そのような聴き方を私は「(日本的?)ハード・リスニング」とここでは呼びたい。


このハードリスニングのスタイルには菊地成孔大谷能生東京大学アルバート・アイラー 東大ジャズ講義録キーワード編』で指摘されたようにダンス・ミュージックとしてのジャズという要素は消え、広義の「ながら聞き」(ダンスをしながら聞く、本を読みながら聞く、自転車に乗りながら聞く、ものを食べながら聞く、話しながら聞く、寝ながら聞く・・・・・・)を捨象した聴き方だと言っていいだろう。このような静聴するスタイルこそジャズ喫茶という空間に合っているし、そのような聴き方をしたときに得られる快楽を最も価値のあるものと位置付けるのが著者の音楽観であるといっていいと思う。


私はそのようなハード・リスニングと対極にあるイージー・リスニング(私は「ながら聞き」と呼んでいる)によって音楽にはまってきたし、現在もそういう聴取をしているので、無前提にこのようなハード・リスニングで得られる聴取体験の方が価値が高いとされることに違和感を覚えてきた。しかし普通に考えれば流れている音だけに集中して聴くことこそが音楽の基本にして究極の聴き方であり、特に評論などするならそう聞かなくてどうする、という反論も思いつくしそれに強い説得力を感じる。


しかし私はポップ・ミュージックがロックなどの出現によってかつてよりも広大な聞き手を獲得したのは、「ながら聞き」を許す、あるいは「ながら聞き」によってこそ一番強いインパクトを与えられるような要素をもったからだと考えている。また著者が拒絶する音に情念や作者の神話などの意味を見出し聞くことのような、その音楽全体のはらむ一部の要素(むろん音楽全体では「意味」や「情念」、「作者のパーソナリティ」も含まれる。なぜか「音楽」「音楽的」とミュージシャン・評論家がいうときはそのような全体としての「音楽」「音楽的」ではなく、上記ハード・リスニングで得られるような「純音楽的」とでもいうようなものを指していることが多いように思う)を特権的に没入して聴くようなあり方も私はポップ・ミュージックの大きな肯定的要素だと思う。このような聴き方を私は一応「ながら聞き=一部没入型聴取」と呼んでいる。また後藤氏のような(日本的?)ハード・リスニングに楽理的に分析的に聞く聴き方も含めて「音楽構造限定聴取」と呼んでいる。(詳しくは後日考察する)。


その視点からすると著者は自分の聴き方のスタイルを無前提に特権化しているように見えなくもない。しかしこの本の中では、そう見えようになる自分のスタンスへの相対化の作業もなされている。

たまたま音楽にまとわり付いてしまったさまざまな意味づけ、観念の類は、時代の波に晒されることによって洗い流されもするのに、音そのもののリアリティは、余分な夾雑物が消え去ることによってかえって鮮明に姿を現すことの不思議さについてである。
その理由を仮に音楽の持つ力であるとするなら、長島茂雄前監督がいうところの巨人軍ではないが、永遠不滅のものなのだろうか?そうなのだ、といってしまえば話は簡単だが、それも違うと思う。
人間の頭で考える限り二足す二はいつも四で、物理法則が妥当する限り水はいつも高い所から低いところへ流れる。これを普遍的法則というが、音楽の価値に果たして普遍性はあるのだろうか。
おもしろいことに、音楽について真面目に考えている人ほど音楽的価値の普遍性を信じたがるようだ。それはそれで結構なことである。そうでなければ真剣に音楽と付き合っていられないというのもわかる気がする。しかし心情的な共感と現実を混同してしまっては、かえってその「価値」なるものの内容も見失ってしまうのではないだろうか。
つまり、人間の意志や努力と無関係に二足す二は永遠に四であり続けるが、音楽的価値(一般化すれば文化的な価値意識)は「あるものをよしとし、あるものをよくないとする」人々の視線の歴史的な積み重ねからしか生まれない、ということを忘れてもらっては困るのだ。したがって常に価値意識を言語化し、それを他人と共有する努力を続けていかなければ、価値そのものが失われてしまうということだ。
「観念的だった僕のコルトレーン体験」

さて、ここで難しい問題が顔を出す。コルトレーンにまつわる過剰な意味づけも観念なら、いま僕が述べた「音楽的価値の言語化」もまた、言語の作用である限り、観念たらざるを得ない。音楽の価値は本来感覚的なもののはずなのに、それを言葉にし、観念の形に変えなければ他人と共有できず、したがって時代の波を乗り越えられないのだ。
なんというパラドックス。音楽の価値とは、聴いてよしとする感覚的なものなのか、それとも「永遠の美」のような観念的なものなのだろうか。
だが、心配しなくてもいい。この「矛盾」は見せかけである。感覚的なものと観念的なものの相互作用を詳細に考察すれば、両者はお互いに関係しつつ、いわゆる「共同主観的価値」を形づくっていることに気づくはずだ。
つまり、多くの人が根源的なものだと信じ込んでいる個人の感性、感覚は、現実には時代や所属している共同体の価値意識によって大枠を限定されており、「個人の趣味」なるものも実はその地盤の上に成り立っている砂上の楼閣にすぎない。一方、時代や共同体の価値基準は何に由来するのかといえば、共同体を形成している個々の人々の感性の集積以外にはありえない。
ここに、感覚的なものと、それが言語化され観念の形をとったものとの、時間軸に沿って展開される複雑な相互作用の網の目が現れるのである。本来音楽評論とは、この関係を精密に検証するものでなければならない。
「観念的だった僕のコルトレーン体験」

伝統によって継承されるものとは、いったいなんだろう。ひと言でいえば「ジャズと呼ばれてきた音楽の内容と形式」ということになるのだが、ここから多くの混乱と誤解が始まる。やれフォー・ビートでなければいけないとか、アコースティック楽器が本来の姿などと、きわめて表層的な部分で論じられがちなのだ。
確かにそれらはある時代のジャズの「形式」的な側面ではあるけれど、必ずしも「内容」ではない。仮に「その時自分が感じたままに演奏する」音楽をジャズの「内容」とすれば、別段エイト・ビートであってもかまわないし、それこそ楽器だって何を使おうが自由なわけだ。(中略)
すなわち「形式」的な側面は見えやすいので誰しも気がつくが、「内容」に相当するものは現れ方がミュージシャンによってさまざまなだけに、その多様さに幻惑されて見失いがちなのである。
「どうして『ロリンズ派』はいないのか」


音楽の価値に普遍性はない、だからこそ自分が最も価値あると思う聴き方を言語化して伝えていき、またその言語化した音楽体験を実際に経験できる場(ジャズ喫茶)を保っていくことで、自分達が音楽の価値と判断したものを保っていこうとすること。それが著者の考えであり、ジャズ喫茶の店主として評論家として日々実践していることの目的であると上記の引用から読み取ることができる。このような自分への相対化をふくみながら、てらいなく自分の価値観をわかりやすくストレートに書き、またそれを日々のジャズ喫茶の営業などを通して実践していることに私は素直に尊敬の念を感じる。それこそこういう音源や知識、聴き方のハビトゥス(慣習)まで含めた文化を守り伝えていっている仕事には、国家の援助で保護されてほしいと思うくらいだ。


その曇りのない筋の通ったスタンスに学びながら、私は自分の聴き方をできるだけ一般性をもつ形で研鑚しながら言語化していきたいと思う。ハード・リスニングもしなければならない。


最後に特になんてことはないがなぜか印象に残った文だけ引用しておく。

では「ビートルズはジャズじゃない」はどうだ。これはかなり微妙である。単なる事実に言及しているようでありながら、そんなものについては考えたくもないといった、ジャズ・ファン特有のメジャー・ジャンルに対する疎外感情がそこはかとなく漂っている。つまりロックは認めたくないけれど、ビートルズが社会現象にまで至ってしまった事実は無視できないところがツライのだ。
「オレの音楽を『ジャズ』と呼ぶな」