玄田有史『仕事の中の曖昧な不安』


この本は稲葉振一郎氏のホームページ上で、「著者の篤実で暖かい人柄がしのばれる、こまやかな心遣いに充ちた好著」と紹介されていたので興味をもって読んだ。


この本の主題を玄田氏はこう述べる。

この本の最大の主張は、中高年の雇用という既得権が若年から仕事を奪ったというものである。既得権とは、それが既得権であると知られない限り、生き長らえる。しかし、社会がその既得権を広く認識した瞬間、その崩壊はすでに始まっている。


つまり「社内の中高年の雇用維持にともなう労働需要の大幅減退によって」「若年のパラサイト・シングル化」などの若年雇用の減少などが引き起こされているという主張だ。


私はほとんど(一般向けのものも含めて)経済学者の本を読んでいないので、著者が「データは語る」の章でおこなわれている実証的分析を自分なりに判断することが今はできない。それはこれからの課題として、かろうじてわかったデータをもとにした著者の主張には得心がいったし、素朴な実感としても「そうだったのか」「この閉塞感・無力感にこのような外的原因もあると言えるならば納得がいくし、ありがたい」と思った。


また著者はこの本でもう一つ重要な概念「弱い紐帯(ウィーク・タイズ)」を紹介している。

転職についての友人・知人の重要性は、米国の研究からも指摘されてきた。社会学グラノヴェターは、その著書のなかで、転職をする際、強い紐帯(いつも会う人)よりも、弱い紐帯(まれにしか会わない人)から役に立つ就職情報を得ること、人脈の活用が転職時に発生するノイズを除去し、信頼できる良い情報を安価で収集するための最も効率的な手段になっていると主張している(M・グラノヴェター、渡辺深訳『転職―ネットワークとキャリアの研究』、ミネルヴァ書房、一九九八年)。
弱い紐帯の役割が強調されるのは、いつも会っている人々からはすでに知っている情報しか得られないが、たまに会う友人は新しい情報源となるからである。こう考えると、同じ会社で働き、ひんぱんにお酒を酌み交わす友人はまさに強い紐帯だ。弱い紐帯と訳されたWeak Ties(ウィーク・タイズ)の存在が、日本での幸福な転職のためにも重要な役割を果たす。

…政府が、そして民間が職業紹介機能をどんなに充実させても、必ずしも転職を幸福なものにするといえないからである。さらには、どんなに本人が能力を高めても、それだけではやはり幸福な転職にはつながらない。では、家族や親類の縁故が大切なのか。同僚とのあいだに築いた深い人間関係が重要か。いずれも違う。大事なのは、会社の外に信頼できる友人・知人がいるかどうか、である。

なぜ、職場以外に信頼できる友人や知人のいることが、幸福な転職をもたらすのだろうか。 
容易に想像できるのは、相談相手となった友人・知人が新しい転職先にいた場合である。仕事が変わることによる労働条件の変化やそれにともなう不安を、転職を考えている企業に働く友人と率直かつ徹底的に話し合うことができれば、転職の納得度も高まる。転職後に「こんなはずではなかった」と感じることも、転職先の友人と事前に密接に話し合う機会を持っていれば、格段に減る。

だが、かりに転職先に友人・知人がいなくても、転職するかどうかの決断を迫られた際、転職先の情報をどう判断するかで、友人・知人が重要な役割を果たす局面がある。ひとくちに情報というが、「情」と「報」ではじつはその中身も大きく異なる。小川明氏の表現を借りれば、報とは「その気になれば、誰でも、何処からでも、何時でも入手できる公開された情報のこと」であり、一方情とは「フェイス・トゥ・フェイス・コミュニケーションから得るニュアンスや裏情報など、人が介在することではじめて発見され、入手可能になる情報」である(小川明『表現の達人・説得の達人』、TBSブリタニカ、一九九一年)。


このようなウィーク・タイズが転職をするに当たって最も大切だと著者は述べる。しかしおそらくこれは転職者だけに当てはまることではなく、もっと広く共有されるべき教訓だという含意がこの本にはある。
例えば「誤解をおそれずにいえば、女性の場合、会社を辞め、家庭に入った瞬間に、人的ネットワークの輪が狭まることが多い。それが問題になる。」という記述には、やんわりとだがウィーク・タイズの観点から家庭に入った女性が何を失いやすいのかについての批判が見られる。


最後の章は著者が実際に高校で行った招聘授業を元にした「終章 十七歳に話をする」がある。この授業のときに生徒から玄田さんは大学教授で月いくらもらっているのか、絶対ここの先生の方が大変だ、ということを言われたというエピソードを記述しつつ、著者はこういう。

正直に言おう。私の二〇〇一年八月の俸給は、四十二万二〇〇円だ。それにいくつかの手当もつく。高校生と毎日奮闘する同年代の教師とくらべえたら、たしかに高すぎる給料かもしれない。だが、金額の問題と同時に本当に考えなければならないのは、私が自分の給料を「これだけ働いているのだから、これだけの金額をもらうのは当然」と誇りをもって言えなかったことだ。私はそのことを悔いている。
これからの会社を支える若者に期待すると、大人はすぐ言う。しかし、本当にそう思うならば、若者が欲している情報を誠実に提供しなければならない(それがたとえ興味本位であっても)。どんな情報が本当に必要かも考えなければならない。そのためには、ささやかでもいいから誇りを持って仕事しているか、私たち一人ひとりが自問することだろう。問題は、やはり、これから働く若者ではなく、現在働いている大人のほうにある。


この部分に私は深い感銘を覚えた。多くの高給取り(著者を高給取りといってよいかはともかく)はそんなに儲けていませんよ、という物言いをする。実際問題として自分の収入の妥当性と仕事の意義を理解してもらうことは、高校生などの若年層に限ってもとても難しいことだろう。しかしその困難な説明責任を「誇りをもって」引き受けることが大人の義務だという著者の考え方にはフリーターである自分もどこか動かされるところがある。