北田暁大『責任と正義』


最初の二章位を読んだ段階でこれほどの敗北感を感じたのは久しぶりである。普段啓蒙書中心にしか本を読まないせいだが、北田暁大氏の『責任と正義』は、当たり前だが社会学の(なんだろうか、それすらはっきりしない)知識を読者がもっているという前提で書かれている学術書のスタイルのため、その論理をたどることすら私には厳しかった。色々と読んだあとにまた再読したい。


この本の主題は一応以下のように述べられている。

本書の課題は―学会誌のabstract風に言うならば―「等しきものは等しく」という正義の黄金律に価値を見出す政治・社会思想=リベラリズムを、社会学的・政治(哲)学的・倫理学的な観点から再検討し、その可能性と限界とを測定する、というものである。このように言うと、「手垢に塗れたテーマを今更・・・・・・」「可能性と限界なんて、もう十分すぎるほど検討されてきたじゃないか」といったご意見を頂戴してしまいそうなものだが、私としては大真面目にそのような「戯言」を吐いている。「なぜ今、リベラリズムなのか―まえがきにかえて」


absutract……。いやそれはいいとして、リベラリズムという思想を様々な学問の視点から検討するというもくろみはわかる。そして著者がその精緻な検討の末だす結論が以下のようになる。

私は自分がリベラリストであるかどうかいまだ確信を抱けてはいない。ただ「少なくとも公的な次元ではリベラルな価値が支配する世界の方が、そうでない世界よりも好ましい」とは思う。その意味では、リベラリストなのだろう。「なぜ今、リベラリズムなのか―まえがきにかえて」


一部でいかにも北田的と評されたりもする慎ましやかな結論に見える。しかしここで言われている「リベラリズム」の責任論と正義論はなかなかハードでありつ確固とした土台があって屹立するようなイデオロギーではないようだ。

リベラリズムがコミットする正義とは、様々な善の構想の相克をメタレベルにおいて調停・裁定する基準でも、人間の本性への洞察や功利計算から導き出される道徳原理でもない。それは、人々の行為の連接可能性(帰責=観察の円滑な連接)を特有の形式で担保することによって、責任のインフレーション(過剰な帰責可能性の現前)を収束させる一方法論なのであって、その存在意義は―倫理的価値によって根拠づけられるのではなく―他の方法論との対照関係においてのみ規定されうるようなものなのだ。だから我々はゆめゆめ《正義》を「社会制度の第一の徳」「他なるものとの出会い(損ね)の契機」などと規範的に意味づけてはならない。コミュニケーションの総体としての社会そのものは、《正義》と機能的に等価な他の帰責方法論(システム論的帰責・《道徳》的帰責)を必要とするし、また殊更に《正義》を優先・尊重する本質を持ち合わせているわけでもない。ただ、「高度に機能分化した社会だからこそ」あるいは、「高度に機能分化した社会であるにもかかわらず」、我々は事実として、《正義》を価値あるものとして信憑する手放すことはないだろう。その習慣の連続を願う私的な選好、不遜な欲望を、我々は通常リベラリズムと呼んでいるのである
こうした議論を機能主義な正当化と呼ぶのは、あるいは正当化という語の濫用なのかもしれない。だが、《正義》の倫理的価値を肯定しつつも、その全域性を断念せざるをえない我々にとって、いかに腰砕けなものであれ、それ以外の正当化の道筋が残されているだろうか。「逞しいリベラリズム」の暴力性、リベラリズムを標榜することの「後ろめたさ」を知ってしまった我々にとって。「第七章 正義の居場所」


要するにどういうことなのかといえば、本を読んでいくと様々な論点を考慮しながら自分の正当化の根拠を一つ一つつぶし、かつそれでも消しえない有効性を確認していった結果、上記のような表現にいきついたというのが漠然と感じ取れるものの、最初に書いたようにそれを解きほぐして端的にまとめることが今はできない。


この本では「なぜ人を殺してはいけないのか?」と素直に(ある意味で純粋な疑問として)問うような存在を「制度の他者」と名づけ、それに対してリベラル・アイロニストが説得を試みるという思考実験がなされている。私は個人的にもまたこれからの運動なり批評にしても「説得」という行動がどんどん重要なものになると考えているので、この部分は特に興味深く読んだ。またアイロニストの以下のような説得の論理や、その弱点として著者が考察している部分は、アイロニスト(のいうことを受け入れること)にどうしても違和を感じてしまう理由に言葉が与えられてようで参考になった。

アイロニストはその一流の手練手管で呼びかける。「対する他者をある程度尊重した方が、君の生活はうまくいく。それは偶然といえば偶然の進化の産物なんだけど、結構よくできた話なんだ。いっちょ、この話に乗ってみないか」、と。
この呼びかけに《他者》はどう応えるだろうか。私は、この呼びかけに対してかの《制度の他者》が肯定的に応じ、リベラルな理念に彩られた世界に投降するとは思えない。それは、おそらくローティ的名アイロニーの精神そのものがはらむ原理的な問題―アイロニカルな説得の可能性―に由来している。「第四章 How to be (come) social?」

アイロニストの説得は、アイロニストが伝達したい価値(勉強すべき)のみならず、アイロニーの精神(「勉強すべき」という命法に根拠はない)まで伝達してしまうために、説得する側を価値に動機づけることが、決定的にできないのだ。アイロニストの説得は、説得される側がメタ・アイロニーを発し、アイロニストの主張する価値受容に抗うことを原理的に排除できないのである。「第四章 How to be (come) social?」


ひいひい言いながら何とかメモれたのがこれ位だということが自分の理解力の深度を如実にあらわしているが、仕方ない。少し力をつけたら再トライしたい。