福島英『ポピュラー・ミュージックのためのヴォーカルトレーニング』


 福島英は、ブレスヴォイストレーニング研究所の代表でその名の通り「ブレスヴォイストレーニング」というメソッドを考案して、ヴォーカリスト志望者、役者志望者、声優志望者などのヴォイス・トレーナーとして活動している。


 とてもたくさんの著作を出しているのでバンドでヴォーカルをやっていたような人なら一度はシンコー・ミュージックリットー・ミュージック刊の著者の本を手に取ったことがあるのではないだろうか。


 私はこの人を自分のヴォーカルについての師と思っているが、一度講演に行っただけで直接のコミュニケーションはほとんどとっていない(こわくてとれない)。だがついに27歳、独学でできるところは2年でそれなりにやったということで10月からこのブレスヴォイストレーニング研究所の通信教育を受けることになる。一念発起して通信教育かよ!と思わなくもないが、経済的にこれしかできない(し、直接対面はこわい)。


 閑話休題。この『ポピュラー・ミュージックのためのヴォーカルトレーニング』は、それまでの福島の本ではあまり書かれなかった「ブレスヴォイストレーニング研究所」でのレッスンの成果をもとに、ブレスヴォイストレーニングの考え方・トレーニングメニュー・参考にするべきヴォーカリスト・課題曲などを紹介し、加えて実際の研究生の文章も多く収録されているので研究所の様子も伺えるようになっている。実際のレッスンで使われたテキストやリストを多く掲載しているためか私が読んだ福島の著作の中では最も具体例が豊富でとっつきやすく、またテキストの密度も高く研究生の生の声から雰囲気もつかめるといった点で最初に読むのにいい本だと思う。とはいえ今書店で買えるかは難しい気もするが。


 福島英のこの本での(他の著作でも一貫してそうだが)基本的な考え方は以下の前提認識から始まる。


私が「ブレスヴォイストレーニング」で試みてきたことは、欧米のロック・アーティストと日本のロック・ヴォーカリストとの絶望的な声のパワーと魅力の差を現実的に埋めるための方法です。

日本語の発声自体を楽に音楽的に使いやすく変えていくことと、そのための発声トレーニングが必要であるという思いは変わりません。討論や台詞読みから日常生活に至るまで、声に関する啓蒙が必要です。


 日本は声を出すことについて欧米(世界に通用するポピュラー・ヴォーカリストを育成するのが第一の目的なのでポップ・ロック・R&B等含めたポピュラー・ミュージックの中心として欧米を基準にする)のような声量・声質・表現についての訓練を受けておらず、むしろ強く太い声を出すことが失礼であり、細く高くおとなしい福島がいうところの「声の敬語」を知らずに身につけ使っているがために、日本のヴォーカルは総じて欧米のプロのヴォーカル(ジャンル問わず)に対して圧倒的に格下であるというのが福島の基本的な認識である。


 これはもちろん欧米びいきの日本嫌いというパターンにはまってしまう危険もあるが、私は自分で日本と欧米のヴォーカリストを聴き比べてみてもたしかに何か根本的に土台が違うように感じるし、それに優劣をつけるのはその人の価値基準によるとは思うが、声量やヴォーカル一本でどこでも受け入れられる技術という面ではやはり欧米の方が強いと思う。

 
 そこで福島はその認識を前提として以下のようなトレーニングの方針を述べる。


私自身、日本人、外人問わず多くのヴォーカリストに接して、確信したことが3つありました。
 1つめは、声さえ自由に出るようになれば、飛躍的にヴォーカルの力は伸びるということです。一流といわれるヴォーカリストには声を出す体と技術があります。彼らと同じ発声のできる体になることを基本のトレーニングの目的とします。そのためには、今の声(多くの日本人の出している声)を否定することから基本を徹底しました。つまり1オクターブ、正しい声が使えていたら、1フレーズぐらい彼らと同じように歌えるのに、歌えないということは、声そのものに問題があるということです。しかしこれは、新しい声を作るということではありません。間違った声の出し方を正しくしていくことで、あなた自身の最も理想的な声を発見し、歌に使えるところまで鍛えていくことなのです。この点で巷で行われている多くのヴォイストレーニングやヴォーカリストの指導は、今の声を前提に伸ばそうとしています。今の声とは、日本人の一般的名発声の状態で、本当はもっと楽によい声が出るはずなのに、そのようにできていない発声を指します。
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これを原点に戻して直そうとせず、部分的な処置をしているから、何年たっても伸びないのです。本人はトレーニングで伸びたと思っているかもしれませんが、徹底して鍛えれば、10の声を100にできたのに、12や15で満足しているわけです。
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2つめは、表現すべき音(音楽)のイメージ、いわばセンスや感性とよばれるものです。感じるだけでなく、感じたことを声の表情で伝えるところに、ヴォーカリストの才能が問われます。この才能を開花させるトレーニングが必要です。これは、むこうのアーティストのように、1つめの条件が満たされていると、声と同時に完成していく場合が多いのですが、日本人の場合は、1つめの条件を持たぬため、器用にまねて歌えるだけのヴォーカリストになりがちです。そういう人は、まわりからうまいと評価されるために、結局、歌や声の本質がわからず、声も歌も表現も限界がきます。しかしこの状態でも、ほとんどの人がヴォーカリストとしてのプロ活動ができてしまっている唯一の国が日本です。
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そして3つめは、トレーニングへの取り組み方と考え方です。レッスンそのもの以上に、今の若い人には、ものの考え方、もう少し具体的にいうと、アーティストの精神やポリシーといった部分が必要です。昔、芸人は師匠の家に住み込んで、全く教えられないところで芸を盗んだといいます。「本当のことを身につけるには“場“が大切」と私は常にいっています。よい”場“には、雰囲気があり、気が満ちているからです。


 まず一音なり一フレーズにおいて欧米のプロと同じ「発声」ができるようになること。しかもその「発声」をものにするために、毎日最大の集中でトレーニングを積み重ねて最低2〜3年はゆうにかかるということ(この「発声」をものにするまでは歌唱方法やリズム・音程などのトレーニングはやっても小さくまとめるだけであまり意味がないというのだ)。その「発声」のためにまず「ハッ」と息を吐くのを毎日繰り返すなどの息(ブレス)を強く太く無理なく吐けるようになり、その息に声をのせていくというプロセスをとるのが「ブレスヴォイストレーニング」というわけだ。


 このような基本方針は福島のおそらく全ての著作で貫かれているため、この読者に要求されたものの過剰さ、また革新的かつ断定的な語り口のうさんくささについていけないという人も少ないないと思う。私もそうで、即効に効果を出すべくいいとこどりをしようと著者の本を利用しているうちにどんどんはまっていき、今では基本のキである一音の発声に2年かかるというのは野球を本格的にはじめてプロになるために習得すべき基本的な体づくりかかる期間を考えれば妥当・短いくらいではないかと思うようになってしまった。もちろん福島のいうやり方だけがありうべきヴォーカル・トレーニングとは思わないものの、福島がプロのヴォーカリストになるには10年かかるという言葉にも正当性を感じるようになった。


 その発声のトレーニングを前提として、リズムや音程、歌唱のトレーニングも多くメニューが紹介されている。その時のメニューの多様さと(全著作やホームページに記載されているものを合わせれば五百位は軽く超えるのではないか)それぞれに「声のポジションをとるのは、上から下におしつけてはよくありません。背中の方から胸の前に声が出てくるという感覚です」というような具体的な身体技法の説明があることに、このメニューは本当にレッスンで行われて、そこから得られたものを可能な限り言語化して伝えようとしているのだな、という蓄積の重みを感じる。


 しかしその断定的な語り方、またその詩的であることや哲学的であることの無防備さや通俗性に辟易する人もいると思う。例えば以下のような発言をどう捉えるか。

アーティストは、しばしば、神の下僕や神の仲介役を果たすことがあるようです。…
声楽家も自らの声の中に神の存在を疑うことができないと言います。
わずか2センチの声帯が、2オクターブ以上の素晴らしい声を響かせます。それを体得すると、自分の努力のみで、そういう天の声のようなものが出せたとは思えなくなります。謙虚な気持ちになり、何者かが自分をして、こうあらしめるのかという哲学的自問をし始めるようです。
そういう面ではアーティストは、信心深い宗教家に近いかもしれません。プロテスタント・ソングなどを歌って、現実の行為を通じて世の中に働きかけている人たちもいます。もともと、昔は、司祭が政り事として政治も宗教も取り仕切っていたのでうから、ロック・アーティストが、このような面からカリスマ性をもち、大衆に働きかけるのは当然と言えましょう。追っかけやファンは、その××教(××バンド)の信仰者なのです。


 私自身はこういう物言いもけっこう正しいと思うが、しかしこんなにナイーブでストレートな形でいっていいのか、もっと純技術的な記述を執拗に重ねていくことで、そのこと自体の強度から上記のような感じを与えていくようなスタイルの方がいいのではないか、とも思わなくはない。しかし私はそれも上記のような膨大なトレーニングの実践・研鑽に裏打ちされているのであれば肯定できるし、取り組みがいのあるメソッドだと思う。