稲葉振一郎『経済学という教養』


この本は「人文系ヘタレ中流インテリ」に向けられた経済学の啓蒙書であり、現在の社会体制を基本的に肯定する担い手の一人として、知的分業や社会活動を通して公共性を維持していくモチベーションを与えようとするアジテーションの書でもある。


著者はこの本の想定している読者を以下のように規定する。

ぼくが期待している読者はたとえば例のソーカル事件、そして「サイエンス・ウォーズ」でかなり不安になった人、「ポストモダン知識人の書き物のあらかたはファッショナブル・ナンセンスだ」と告発したアラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』(岩波書店)を読んで「ポストモダン本がわからないのは、どうやらこっちの頭が悪いからというだけじゃなかったらしい」と少しホッとすると同時に、「それじゃ人文系の知にはどんな意味があるってんだ?」と悩んだ人たちだ。

要するに本書が想定しているもう一つの「素人」グループとは、ポストモダン的科学批判なんかもちょっとかじってしまって、もちろん「新古典派」経済学は食わず嫌いで、経済について勉強したいな、と思っても、つい「制度の政治経済学」なんてタイトルのついた本のほうに手が伸びてしまう人文系知識人、ならびにその読者さんたち、である。


まさにポストモダン的な思想をかじってしまって、経済学を食わず嫌いどころかほとんどその存在自体を意識することなくきてしまい、古文も読めず、くずし字も読めず、文献実証もまるでできないのにテクスト論・カルチュラル・スタディーズ国民国家論、テマティスム、社会構成主義がどうたらと面接でぶつことによって定員割れで国文科の大学院に入ってしまった私は、まさにこの「人文系ヘタレ中流インテリ」の駄目な方にずっぱまりだろう。
そして、こういう考え方に染まった者として、著者が以下でいう「逆風」はまたに肌身にしみるものであった。

もう一つ指摘しておくと、これは経済学よりむしろ心理学、生物学が震源地となっているのだが、二〇世紀の人文社会科学を支配した「文化相対主義」には、このところ強烈な逆風が吹いている。すでに見たように「文化相対主義」は人間性について、その多くは社会的、文化的に形成されたものであり、生物学的な要因は弱い―とくに人間の心的な性質については、脳の中で精神作用をつかさどるようなところは可塑的で、生まれたときは「白紙」のようなものであり、その白紙への書き込みは文化、社会主体でなされるもの、と考えてきた。だからたとえば「ある部族の言語には時間にまつわる語彙がなく、それゆえ彼らは時間の観念や感覚を持たない」とか「ある部族の言語には色の名前が四つしかなく、それゆえ彼らは四種類の色しか見分けられない」といった神話が、まことしやかに流通してきた。
しかしこのような神話は、近年次々に打ち壊されてきている。人間の脳は決して「白紙」ではなく、人間の持つ性質・能力のうち意外に多くの部分は、あらかじめ遺伝的にプログラムされており、その範囲内での「文化的相対性・多様性」であると言える。何より、人間の文化の多様性の核と見なされてきた言語についての近年の研究は、一見でたらめに多様に見える言語は、ある一定の法則に従っているらしいこと、また人間の脳には言語活動に特化した特定の部位がある、つまり言語能力はかなりの程度遺伝的で先天的なものであること、などがわかってきている(この辺についてはたとえば、ドナルド・ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』新曜社、スティーヴン・ピンカー『心の仕組み』NHKブックス酒井邦嘉『言語の脳科学中公新書などを参照)。


私や同じ部活の友人なんかが「オレはクイアだ」とか得意になってはしゃいでいた大学時代を思い出すと胸が痛い(本人がかわいそうなのでもう一人の人文系ヘタレ中流インテリは伏字。しかし言ったのは事実。これよりひどいことをいっぱい言っていた過去をなかったことにしてはいけないという衷心による老婆心と自戒をこめて)。


もちろん著者もそのようなポストモダンの思想の影響は深い。自分も「人文系ヘタレ中流インテリ」だったという思いもあるはずで、その思考や気持ちがよくわかるのだろう。そこで彼らの蒙を啓き、ある閉鎖性を打ち破るのに最も適した学の一つが経済学である、ということだろう。ではそれはなぜか?


さて、以上のお話は自然科学を念頭においてのものだったが、じつは同じようなことが経済学についてもある程度いえる。人文社会科学の中でも経済学、ことに現在主流の「新古典派経済学」は、その理論モデルの構築においては、一部の自然科学をしのぐほど数学的に洗練されている。また実証においても、いわゆる計量経済学の手法による大量データの統計的分析はかなり高度なレベルに達している。つまり総じていえば経済学は、人文社会科学の中では例外的なまでに、自然科学と同様の「科学的」な体裁を研究スタイルにおいても、また学界の社会的編成においても整えてきている(この点で比肩しうるのは心理学くらいだ。脳神経科学や計算幾何学との連携を強めてきた近年、心理学は事実上「自然科学」化しつつある)。
しかしながら、経済学界隈には特有の事情もある。とくに重要なのは、少なくとも七〇年代、長めにとれば八〇年代まである程度の生命力を有して「新古典派」のライバルとして立ちふさがった「マルクス経済学」という有力な反主流派の存在である。

マルクスによれば、彼以前の経済学者たち、具体的にはアダム・スミスとディヴィッド・リカードウが二大偉人でその他玉石混淆の有象無象がいるわけであるが、どのみちこいつらは、ほぼすべて「ブルジョワ経済学者」である。そしてマルクスが「ブルジョワ経済学者」に対して勝っているのは二つのレベルにおいてである。
すなわち第一に、現実の経済メカニズムの科学的解明において、マルクスの経済分析は「ブルジョワ経済学者」のそれよりも勝っているわけだが、それだけではない。第二に、「ブルジョワ経済学者」は、現実の経済メカニズムに対する無意識の加担者である。「ブルジョワ経済学者」は、現実の経済、市場を中軸として成り立つ、マルクス的に言うところの「資本家的(資本主義)経済」を自明の、自然な仕組みと見なして分析する。まさにそういう学問のあり方自体が「経済社会の一つのありようとしての資本主義は、決して自然で当たり前のものではない。過去においては資本主義は存在しなかったこともあるし、また未来永劫続く保障もない」ということを人々に忘れさせることによって、資本主義の存続に手を貸しているのである。マルクスは、「ブルジョワ経済学」のこのような働きを「イデオロギー」と呼ぶ。
イデオロギーとは要するに、システマティックな欺瞞なのだが、ただの嘘、インチキではない。イデオロギーの呪縛(本書後半でも触れるが、「疎外」「物象化」とか呼ばれる)の下にある人々は、自分たちが生きる社会の真のメカニズムについて無知・誤解を強いられているわけであるが、まさにそのような無知・誤解の下に行動することそのものを通じて、その当の社会メカニズムの維持に貢献している。
マルクスによれば、「ブルジョワ経済学」はこのような意味でイデオロギーであり、その呪縛はほかならぬ「ブルジョワ経済学者」自身にも及んでいる。資本主義社会の自然な自明性や正当性を疑わない限り、「ブルジョワ経済学者」には、たとえ個人としてどれほど賢明で、どれほど真剣に研究に取り組んだとしても、決して見えてこない問題があるのだ。しかしこうした視角は「ブルジョワ経済学者」には丸ごと欠落しており、これこそがマルクス経済学の「ブルジョワ経済学」に対する決定的な優越の根拠である、というわけだ。
このあたり種明かしすると、マルクスの「経済学批判」はロジックとしては後のポストモダン的科学批判の原型となっている。整理するならそれは、(1)資本主義の仕組みが、その中に生きる「ブルジョワ経済学者」の思考に制約を加えてしまい、反対に(2)そのような「ブルジョワ経済学」によって「洗脳」された人々の振舞い、経済行動が、資本主義の仕組みを再生産する、と指摘するわけだ。
(1)の論理が自然科学、科学一般に広げられれば「パラダイム」論になるし、(2)の論理が暴走すると相対主義的「科学=思いこみ」論になる。そして大筋としては文句のつけようのない、このマルクス経済学・社会科学が犯した過ちが、後のポストモダン科学批判の陥った袋小路をまさに予告してもいるのだ。

経済学だけのことではない。経済学と同じように、方法論的個人主義に則り、数学的な理論構築を行うゲーム理論、あるいは先に紹介したように「自然科学」化しつつある心理学などと、伝統的、あるいはポストモダン的な人文社会諸学との没交渉ぶりは、いまだ十分には改善されていない。
だが、そのような没交渉が長く続く間に、新古典派経済学も現実との取っ組み合いを経て着実に進歩してきた。そしていまや、逆襲が開始されているのである。たとえば、かつて新古典派経済学への人文学からの(そして常識的素人さんからの!)お決まりの批判は「合理的・利己的主体モデルは、それほど賢くもなければ利己的でもない現実の人間のモデルとしては非現実的すぎる」とか、「社会的相互作用の数学モデル、現実の制度や組織の複雑性を記述できない」といったものであった。
しかしながら、後に本書でも適宜紹介するように、現代の経済学は、右のような批判に応えるべく「ほどほどに合理的で、ある程度利他的な主体のモデル」「制度や組織、慣習の数学的モデル」を開発してきた。これによってたとえば、伝統的な経済学では「経済的に非合理で理解不能」とされてきたさまざまな経済現象―とくに、市場での開放的な取引があえて回避され、共同体内や組織内での閉鎖的取引が続いてしまうことーの経済的合理性が解明されてきたのである。


長い引用だが、ようするにポストモダン的思考にかぶれたものにとっては、内容も知らず、当然経済学の勉強も数式の一つも自分で解いたことがないにもかかわらず(未だに私は数式は解いてないが)、それが現在の資本主義体制を肯定するものである、かつ多様な個人の生を単純なモデルに還元して「神の見えざる手」とかなんとかを金科玉条のごとく代わり映えもせずかたくなに守り続けているという理由で、経済学をとにかく相対化しようとしてきたということだ。しかし上記によるとその間経済学は地道な実証・洗練を続け、その学のあたえる認識がかなり信頼性の高いものであることを証明し、逆にポストモダンにかぶれたほとんどの者ははっきりいって権威のありそうな学や思想をかたっぱしから相対化しては、適当な思いつきで荒唐無稽な空理空論をぶつだけだった、ということになる。


もちろんポストモダンの思想家といわれている本家の思想家などはこんな浅薄ではないが、それにかぶれた人達や日本の知識人などは今から見ると上記のようにぼこぼこにされても仕方ないようなことを言っていたのがごろごろいたのを私も知っている。そこでは著者がこの本の末尾で言うところの「教養」が欠けているから、そうなったのだと思う。

個人や普通の企業、団体にできることは限られているし、できるとしても、進んでやりたいと思うことはさらに限られている。ゆえに、個人やその他個別の経済主体にあまり多くを望まない。基本的に、他者を害することなく、自分の面倒を見ることができればそれでよし、とする。そして各個人が自分のことにかまけていてもかまわないような環境の整備を、公共政策の守備範囲とする―こうした経済学の知恵は、尊重すべきものである。ぼくはこう考える。一人一人の自由を尊重しつつ大規模な社会を切り回すには、少なくともいまのところは、この路線で行くしかないのだろう。
となれば、公共政策の直接的な主体は、主として間接民主政治における「代表」「代理人」、つまりは政治家や官僚ということになるわけだが、彼らに任せてオッケー、ということになるかと言うと、もちろんそんなわけでは決してない。現場での直接的な担い手でもなく、かといって単なる観客でもないような、そんな立場に、普通の庶民も立たなければならない。
つまりは「目の肥えた観客」にならなきゃいけない。具体的に細かく現場で何をどうこうすればいいかの「専門知識」はなくとも、大筋で何が大事かのツボを心得ていて、誰に任せればいいかのついての判断はそこそこできる、そんな目の肥えたうるさがたに。「専門知識」としての経済学はみなさんには不要だが、「教養」としての経済学は必要だろう。

しかしどうすれば(経済学に限らず)そういう「教養」が身につくのだろうか?それはただ単に勉強して知識を詰め込めばいいってことではないだろう。しつこいようだが、人間の能力には限りがある。すべてを知ることが「教養」ではない。そうではなく、それ以前の「生活態度」のレベルで重要なことがある。それは「専門知識」のありがたみを骨身にしみて知っておくこと、つまり自分の現場で自分なりの「専門知識」をきちんと身に付けておくことによって、他人の「専門知識」に対する尊敬の念を持てるようになること、であろう。
言い方をかえると「知識の経済学」というものが、単に比喩としてではなく大真面目に考えられる。そしてぼくが考えるそこでの基本原理は、やはり「分業」、つまり知的分業だ(この辺はじつは現代哲学、認識論の非常にホットなテーマである。森脇康友編『知識という環境』名古屋大学出版会、戸田山和久『知識の哲学』産業図書、が参考になる)。ではその観点からすれば「教養」とは何か?それは第一に「知的分業に参加できるためにみんなが最低知っておくべきこと」であるだろうが、それ以上に重要な第二の要素は「知的分業を可能とする社会的な枠組みと、それへの信頼感の共有」だろう。つまりそれって「公共性」と別のことではないんだ。


「それは「専門知識」のありがたみを骨身にしみて知っておくこと、つまり自分の現場で自分なりの「専門知識」をきちんと身に付けておくことによって、他人の「専門知識」に対する尊敬の念を持てるようになること」、「知的分業を可能とする社会的な枠組みと、それへの信頼感の共有」、この二つがなかったから自分は地道にある分野の学問の実証をこつこつとやらなかったし、どんなものに対しても簡単に言語ゲームで相対化できると思っていたのだなぁと一人ため息をついても仕方ないのだが、これは真に有意義なポストモダン的な思想の実践のためにも必須のものだ。むろん本家の思想化はこれらを持ち、しっかりこれらを時間をかけて習得してから相対化、オルタナティヴの創造への挑戦をしてある程度成し遂げたから偉大なのだ。


経済学の数式を使わない説明のメインパートも内容が濃く、それも時間をかけてある程度はものにしていきたいと思うが、私にとっては自分の、地道な努力なきポストモダンかぶれという状態を解毒してくれるものとして、きわめて有意義だった。


ちなみに左翼の友人が私にも何人かいるが、そういう方にはやはりこの本のポストモダン批判や人文系ヘタレ中流インテリ批判はうなずけても、現在の資本主義体制を基本的に肯定すべしという本の主張には同意できないだろう。その人たちの意見も聞きたいと思う。


しかしこれは嫌がらせでいうのではないが、経済学批判として『資本論』を著したマルクスを重要な先人にもつ左翼の人はたとえば以下のようなミクロ経済学の簡単なモデル説明などは、当たり前に理解した上でやっているのだろうか?それは普通に知りたいことではある。必ずしも現在の体制を批判するものが経済学を知っている必要はないはずだが、しかし有効な批判やオルタナティヴを提示するためには当然の前提として経済学の教養をもっていなければならないと言われたらその通りな気もする。とりあえず左翼ではないが、どうもそれでも著者や山形浩生氏、田中秀臣氏らが信奉する「リフレ派」に(正確にはこれを肯定する人たちに見られる感受性・人生観のあり方や現実の現象の解釈の仕方に)なじめない自分は、ゆっくり少しくらいはそういう数式もかじってみようと思った。

 さてそのミクロ経済学、というより経済学すべての出発点は、ぼくが思うに「分業の利益」のテーゼである。このテーゼが素人にとっていちばん印象的な形で腑に落ちるのは、国際経済学の基本原理、自由貿易政策の理論的な根拠であるところの「比較生産費説」(十九世紀イギリスの経済学者リカードゥが定式化した)によってであるが、じつはこの理屈の通用する範囲は、国際貿易どころか、ほとんど経済現象全般にまで及ぶのだ。
 
 ここで経済学者は「ミサトさんはシンジ君に対して、唐傘の生産において比較優位にある」という言い方をする。そして経済学的にはこの「比較優位」のほうが「絶対優位」(だって、唐傘に関する生産性ではシンジ君のほうが上なんだから)よりも重要だ、と考える。

 シンジ君ミサトさんそれぞれにとっての「自己内交換比率」を考える。つまり、シンジ君とミサトさんとの間の取引の可能性はないものとして、それぞれ一人でやりくりするというケースを考えるのだ。シンジ君の場合、一日働いてお味噌を一〇か唐傘を八かのどちらかである。ということは、お味噌を一〇得るためには、唐傘を八あきらめなければならない。となると、お味噌と唐傘の自己内交換比率は一〇対八、お味噌一単位と唐傘〇・八単位は同じ価値、ということになる。同様に考えれば、ミサトさんの場合はお味噌と唐傘の自己内交換比率は四対六、つまりお味噌三分の二単位と唐傘一単位は同じ価値、ということになる。

 ここで、シンジ君とミサトさんとの間で取引が可能になるとしよう。問題は、どのような条件の下でなら、取引がただ単に可能であるだけでなく、実際に行われるようになるか、だ。品質の違いを考慮に入れなければ、同じもの同士を交換する必要はない(されるとしても交換比率は一対一だろう)。だから、交換比率はもちろん違う品物同士のそれである。この社会的交換比率は、シンジ君ミサトさんそれぞれの自己内交換比率とどのような関係にあるだろうか?以下では交換比率をすべて「唐傘の数量/お味噌の数量」という風に表そう。
 かりに、社会的交換比率がシンジ君の自己内交換比率「〇・八」と等しかったらどうなるか?この場合シンジ君には交換を進んで行う動機がないが、行わない動機も特にない(こういう状態を経済学方面では「無差別」という)。しかし、ミサトさんならどうか?ミサトさんの自己内交換比率は「一・五」である。とすると、ここでミサトさんには、交換を行う積極的な動機ができてしまうのだ。なぜなら、交換に賛歌しないのであれば、ミサトさんは唐傘を一単位と引換えにお味噌を三分の二単位しか得られないが、交換を行えば、唐傘を一と引換えにお味噌を一・二五得られるのである。となればミサとさんがお味噌を欲しいと思えば、自分でお味噌を作るのはいっさいやめて、比較優位のある唐傘の生産に特化し、お味噌を欲しいときには唐傘との交換で得ればいいことになるだろう。
 さて、ここで実際にミサトさんが唐傘の生産に特化したとしよう。そうなると、シンジ君の選択の幅がちょっとだけ狭くなる。つまり、もしシンジ君がお味噌も唐傘も欲しいのであれば、もうシンジ君には、唐傘の生産に特化するという道は残されていない。そんなことをすれば、お味噌が手に入らなくなってしまうからである。となるとシンジ君にできるのは、お味噌と唐傘両方作るか、お味噌の生産に特化して、唐傘が欲しければお味噌と交換でミサトさんから得るか、である。
 もしここで、交換比率が「〇・八」のままであれば、シンジ君としてはどちらでもかまわないはずだ。しかしかりに、ここで交換比率が「〇・七」になってしまったとしたら?この場合ミサトさんには依然として、というより交換比率「〇・八」のとき以上に唐傘をお味噌と交換する動機があるが、シンジ君には交換を拒否して、お味噌も唐傘も自力で作るほうを選ぶ強い動機ができてしまう。それに対して、交換比率が逆の方に振れて「〇・九」になった場合には?この場合は、ミサトさんには「〇・八」のときよりは不利だとしてもなお、唐傘をお味噌と交換する場合の動機があって、なおかつ、シンジ君のほうにもお味噌を唐傘と交換する強い動機が発生する。
 こう考えると、社会的交換比率の値が〇・八から一・五の間にあれば、シンジ君がお味噌、ミサトさんが唐傘の生産に特化して、自分が作っていないものは相手との交換によって入手する、という戦略をそれぞれ採用することが、自力で両方とも作るよりもどちらにとっても得になるわけである。反対の極の「一・五」に達すれば、今度はミサトさんにとって唐傘に特化しようが両方作ろうがどっちでも同じ(無差別)になり、そして一・五を超えると取引をやめて自給自足するほうがよくなる(もちろん以上の議論は、ミサトさんの唐傘への特化からではなく、シンジ君のお味噌への特化から話を始めても、同じ結論になる)。

 互いに孤立して暮らしているのではなく、情報やモノ、サービスをやりとりできる社会においては、人々は自分でできることは何でもやるのではなく、それぞれ得意なこと(この「得意」というのは「これについては自分は誰にも負けない」という「絶対優位」である必要はまったくなく、「自分は何をやっても人並み以下だけれどこれについてはまだましかな」という「比較優位」で十分であることに注意!)に特化した上で、あとは互いに補い合うほうが全員にとって有益である、ということになる。
 さて問題は、この相互の補い合いを具体的にどうするか、こうやってそれぞれ得意なことに特化した人々のそれぞれの仕事を、どのように調整するか、である。
 ミクロ経済学の主題はここにある。そして、ミクロ経済学は市場という仕組み、それぞれのモノ・サービスに価格をつけ、その価格の比率を交換比率として人々の間で勝手に、自由に交換を行わせる仕組みこそが、とくに大規模な文明社会においては、最も重要な分業の調整メカニズムである、と主張する。

ちなみに私はこの簡単な例ですら「数学出てくるじゃん!」と叫び、紙に書いてあれこれ二時間くらいかけてやっとわかった(ような気になった)。ただ単に自分が数学できなすぎという気もする。