北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』


北田暁大氏の本は二冊位しか読んでいないのだが(内『責任と正義』を読んだときの完敗っぷりは以前に書いた)、それぞれの本や論考で私にとってはきわめてビビットなキーワードが見出されるのが大きな魅力になっている。


例えば対談などで話している中で要約していたものしか読んでいないが、『広告都市・東京』などの広告論では広告を受容する人が一般的に「気散じ」(ベンヤミンからの言葉らしい)の状態にあるという所があり、その「気散じ」という言葉は私が音楽について考える時どうにかしてその重要性・創造性・公共性を強調したい「ながら聞き」の聴取効用を考える上で「気散じ」という言葉はああ!そういうことをベンヤミンは論じていたのか!と目から鱗が落ちる思いだった。


他にも『責任と正義』ではリベラル・アイロニストによる「制度の他者」への「説得」が思考実験として展開されていた。そこでその「説得」はある種の「制度の他者」には失敗するものの、ある種の「制度の他者」にはその「説得」は成功するのである。そこでの「説得」というキーワードも、直感でしかないが今の思想風土においては言いにくく想起すらされにくいが重要なポイントだとして非常に印象深かった。


図書館で借りてようやく『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読んだときも、「気散じ」「説得」などに続く個人的に飛び込んでくる言葉があった(本当に個人的感慨だからあまり本にとって重要ではないかもしれないが・・・)。


 本書では、「世界と自己の関係の問い直し」という行為、一般に「反省reflection」と呼ばれる行為の社会性・歴史性を追尾することによって、右の問題に取り組んでいくこととしたい。「世界と自己とのあいだに距離を置き続けるというポジショニング」としてのアイロニーは、反省のサブカテゴリーをなすものといえる。世界や思想に自己を同一化させる反省(没入)もあるだろうし、世界を自己に包摂する反省(独我論)もあるだろう。いくつもありうる反省のスタイルのうち、なぜアイロニーという反省形態が採用されたのか、そしてアイロニーはどのように変質していったのか。本書では、現代的なアイロニズムの誕生とその変容を「反省史」の一環として記述していく。
 まずは、反省という社会的行為そのものが自己目的化し、反省を可能にする具体的な基準を付随化させてしまったようにみえるある出来事・事件を、反省史の端緒としたいと思う(第一章)。具体的にいえば、一九七一年の暮れから七二年にかけて起こった連合赤軍事件と呼ばれる出来事に焦点を当てる。
 六〇年代学生運動の鬼っ子である連合赤軍の内部空間では、総括と呼ばれるかなり異様な反省の振舞いが人びとの身体を規定していた。「自己に対する反省」をどこまでも突き詰めようとする総括においては、反省の準拠枠(反省の成否判断を可能にするルール)は不可視化され、反省するという行為の連接自体が目的=思想となっていく。反省は、総括においていわば飽和し、「何かに対する」という志向性を欠如させるわけだ。この特異な反省の形態の成り立ち(それは単なるカルト集団の愚行などではなく、六〇年代の時代精神を継承するものであった)、構造についての分析を、本書における「反省史」の端緒とし、総括的な反省様式への反省、反省主義の反省を繰り出す連赤以降の歴史を記述していくこととしたい。
 第二章では、反省主義への反省が浮上し、「反省しない」という反省(抵抗としての無反省)の様式、アイロニカルな行為様式が迫り出してくる七〇年代―八〇年代初頭(消費社会的アイロニズム)を、第三章では、アイロニーが制度化し「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」という留保が解除されていく八〇年代なかば―九〇年代初頭(消費社会的シニニズム)を、そして、第四章では、アイロニーが自己目的化し「感動」「実存」との共存が制度化される「ポスト八〇年代」(ロマン主義的シニニズム)を分析する。


アイロニーや没入といった現在の気質を考えるときの重要な言葉が「反省のサブカテゴリーをなすものといえる」というくだりは、「反省」というもう使い古されてしまったように感じていた言葉がまた別の角度から光を与えられたような気になった。「世界と自己とのあいだに距離を置き続けるというポジショニング」という意味でのアイロニーは、反省の一カテゴリーであり他にも「世界や思想に自己を同一化させる反省(没入)もあるだろうし、世界を自己に包摂する反省(独我論)」など様々な形式がありうる。その並列された反省形式の中でなぜアイロニーが突出して選択されてきたように見えるのか。それを著者は連合赤軍の事件からの「反省史」を辿ることによって見出そうとする。


連合赤軍においてはいわゆる「総括」といわれるただの反省ではない徹底的な反省、「自己否定」が特徴であった。

かれらの多くは、学生がはたす闘争上の役割を過少視する共産党(民青)に反発してはいたけれども、大学進学率十数%という時代に大学生―企業や国家の部品予備軍―をやっているという事実に反省的なまなざしを向けずにはいられなかったのだろう。自己をたえず否定的な形で乗り越えていくことこそが実存の本質であると看破した、サルトル実存主義が学生たちに読まれたのもちょうどこの時期のことであった。


自己否定の論理を現在の言葉で言い換えるなら、ポジショナリティ(位置どり)をめぐる論(倫)理ということができるだろう。《あらゆる言説・実践はつねに歴史的・社会的・政治的文脈のもとに置かれており、言説を紡ぐ者(研究者等)は自らの社会的・政治的立場に自覚的にならなくてはならない。「誰が」「何を」「いつ」「どこで」「誰に」語るのかというポジショナリティはきわめて重要な問題であり、この問題を消去した「中立的」「客観的」な言説などありえない》―こうしたポジショナリティ論、九〇年代なかば頃から日本のアカデミズムに広まったカルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムといった思想言語のなかで積極的に展開されている。


「革命や無階級社会のイメージ」を設定する左翼思想は、不可避的に、それに奉じる主体=インテリゲンチャに解決不可能な難題を突きつける。つまり、左翼思想の難解な論理・概念を操るインテリその人は、当の思想が解放しようとしている「プロレタリアート」でも「民衆」でもない、というポジションをめぐる問題である。現在の社会体制のなかでそれなりの収入、学歴を持つインテリたちが享受している特権性は、来るべき「未来」の社会においては否定されなくてはならない、しかし、その「未来」の到来を現実のものにするためには、インテリは真理を知る「前衛」として何らかの先導的役割をはたさなくてはならない、さてどうするか?―こうしたジレンマは政治理論がプラグマティックな統治術であった時代には生じえないものであった。社会構造を総体として捉え、歴史法則を横目で睨みつつ「解放」を目指すマルクス主義的な思考様式こそが、語る者の立ち位置=ポジショニングへの懐疑・反省を加速させたのである。
 はたしてそうした自己否定の論理が「他者に対する攻撃性というものは全くもたない」ものであったのかは微妙なところだが、マルクス以降の左派的思想が、近代人の要件である再帰的態度を(局所的に)加速させ、真理(思想)と反省(立場)との分かちがたい関係性を浮かび上がらせた、というのは事実だろう。日本において自己否定の論理が前景化してきたのは、おそらくはマルクス主義の本格的な導入が始まる―と同時に「大衆社会」の萌芽がみられる―一九二〇年代以降のことであった。とりわけ、近代的自意識の誕生に大きな役割をはたした文学とマルクス主義との「出会い」は、近代的な反省の系譜を考えるとき忘れることはできない出来事であったといえる。


本来、自己否定とは自己の立ち位置の欺瞞性―自身は「プロレタリアート」でもないのに「プロレタリアート」解放の思想にコミットする―を突くものであったはずだ。大学教授にみられる「権威主義」「非主体性」「自己肯定」「被害者意識」を糾弾すると同時に、自らの内なる「自己肯定」「被害者意識」への欲望を反省し続けること、それが自己否定の課題=使命であった。しかし高橋は、そうした自らを被害者としてみることを反省する当の論理が、「被害加害関係の逆転の契機」となっているとみる。いうまでもなく、学生たちの反省は切実で真摯なものである。だが、自己否定によって得られる否定的・消極的なアイデンティティが、「自己否定できていない」ように映る他者に対する自己の倫理的優位性を保証する、という屈折した構造が存在するのではないか。この倫理が内包するラディカリズムは妖しい魅力とあやうさをあわせ持っているのではないか―。自己否定の持つ政治的可能性に期待を寄せつつ、高橋が括り出しているのは、そうした自己否定の両義性である。


私がこの本でもっとも身につまされた読んだのがこの連合赤軍の部分で、ここで述べられているような反省形式はが、自分のふるまいに最も顕著なものでありそして連合赤軍の総括が帰結したような恐るべき悲惨さをまねきかねないということも論理的のみならず実感的にも納得がいくという意味で考えさせられた。


この強烈な事件を目撃したその後の世代が前の世代の失敗・限界を繰り返さないようにしてある精神形成をなしていく(その中でかつて意識されていたアイロニーが消えてしまったり変質したりする)というのがこの本の流れになっている。そこで糸井重里に代表される「抵抗としての無反性」、メタ広告(CMで江川卓が「いかにも大衆が喜びそうなアイディアですね」とやるような)、新人類に見られる「消費社会的アイロニズム」、その「消費社会的アイロニズム」から赤軍的な60年代的ものへの批判意識が失われた「消費社会的シニシズム」、そしてそのシニシズムの果てにベタな感動とアイロニーが同居してしまう2ちゃんねる的な「ロマン主義シニシズム」へと・・・。この辺りは分析の対象となるサブカルチャーなどの知識が薄いためか妥当性を自分なりに測ることはむずかしかった。しかし、本書の中で紹介される「アイロニーについての哲学的・語用論的分析」は刺激的で、上の変遷を考える上でも示唆が多い。

アイロニーについての哲学的・語用論的分析は数えきれないほどあるが、ここでは社会心理学者・橋元良明のアイロニー分析を参照しておくこととする。橋元は「アイロニーの正体」について、次のように論じている。


自分以外の仮想の人物に視点を移し、その人物に「話し手」の役割を荷わせて発話行為を遂行する場合が存在するとして、それを今かりに「仮人称発話」と呼ぶことにする。・・・・・アイロニーの正体とは、結局、字義通りの発話が可能な立場の人間に視点を移し・・・・・・陳述行為を行うという一種の「仮人称発話」なのだというのが本稿の結論である。


きれい (1)「きれいな顔だね」 (2)「きたない顔だね」 (3)「きれいな顔だね」
                            (アイロニー
       O
       ↑
平均的    A            A          A→↓
評価水準                ↓            ↓
                    O            ↓
                               O ↓
                               ↑ ↓
                               X←↓
きたない



橋元の提示する図で考えた方が分りやすいだろう。(1)は、対象O(聞き手の顔)に関してAが「きれいな顔だね」と誠実に(つまり皮肉でなく)発話した場合、(2)は逆に誠実に「きたない顔だね」と発話した場合である(横点線は「平均的評価水準」を示す〔引用者註、引用の図では横点線ないので「平均的評価水準」とかかれた所から横に点線があると読んでください〕)。また、上方向に伸びる矢印は肯定的な評価量〔きれい〕を、下方向に伸びる矢印は否定的な評価量〔きたない〕を示す)。


話し手が皮肉の意図をもって「きれいな顔だね」と発話した場合が(3)である。そこでは、Aは自らの発話主体性を括弧に入れ、対象Oを高みにみる仮人称Xに立場を仮託して発話している。自らの立ち位置を括弧に入れたままで、仮人称を導入し、字義通りの意味と異なる意味を他者(それは必ずしもアイロニーの対象になっている聞き手でなくても限らない)に伝達する方法、それがアイロニーなのである。この場合、端的に「きたない顔だね」というよりも「AとOの「距離」とOとXの「距離」を足した分だけ現実との剥離が生じる」ために、より大きな効果を得ることができる。


この橋元の分析から私たちは二つの示唆を引き出すことができるだろう。


まず第一に、アイロニーとは、自己の立場(A)を言及の対象(O)よりも上位に置いたまま、自己(A)と、あたかも対象より下位にあるかのように擬制される仮人称(X)とに発話を二重化せさることによって可能となる、差異化の戦略であるということ。アイロニーによってAは、端的に「きたない顔だね」という発話者とも、本気で「きれいな顔だね」という発話者とも―両者とも「平均的評価基準」にコミットしている―距離をとることができる。要するに自分の立ち位置をベタな語り口から遠ざけておくことができるわけだ。発話主体の意図(シニフェエ)と発話(シニフィアン)との素朴な対応関係を否定したうえで、自らの位置を宙づりにする―それがアイロニーの戦略である。


第二に、アイロニーは、つねに特定の文脈情報のなかから仮人称(X)の所在を察知するだけのリテラシーを持つ受け手の存在を前提としているということ。これは「選別主義的で排他的にもなりうる内部集団に対し働く」というアイロニーの特徴を表したものだ。「君はまるでシド・バレットのように繊細な人間だ」といわれても、シド・バレットの名(と経歴)を知らない人にとっては、アイロニーとして受け止められることはない。これは、一対一のアイロニー・コミュニケーションとしてはあきらかに失敗なのだが、実際のところは、一定の文脈情報のなかから話し手が仮人称Xに立場を仮託していることを認識しうる他者の存在を、話し手が想定していればアイロニーそのものは成り立ちうる。Xという仮人称の立場が希少であればあるほど、留保されていたAの位置が高まり、アイロニーの度合いは高まっていくとすらいえるかもしれない。アイロニーは自己の位置を高めつつ、アイロニーを解する共同体のエリーティズムを高揚させる昨日を持つのだ。


(図がゆがんでいるが直し方がわからないのでこのままで申し訳ありません)ここではアイロニーが、自分の立場を宙吊りにして(相手を見下ろす位置からあえて相手の劣位にあるようなふりを装うことで)その落差の分だけ強力な効果をうむことと、アイロニーは常にそれを分ってくれる人を求めまたわかってくれる人らの集団を強固にするものだという二つのポイントが強調されている。


前者がベタ中のベタだったともいえる赤軍的な60年代的なるものへの「抵抗としての無反省」などを、後者が2ちゃんねるの住人に見られるコミュニケーションの接続だけのために罵倒や嗤いが重ねられる「《繋がり》の社会性」などの概念につながるのだろう。このアイロニーの分析は非常によくわかるものだった。その上で以下のような浅田彰の発言が引用されているのを見て、そうなんだよと思わずひざをうってしまった。


  アイロニカルな笑いの場合、どこかに必死で頑張ってるっていう面が隠されてて、それで、ナナメ上からの、  ひきつった、うつろな笑いになっちゃう。パロディやトリックによって差異を差異として楽しんでいるように  みえて、その実、差異をあざとく人目をひくための手段にしちゃってる。

八三年におけるこの浅田彰の言葉を、八〇年代そのものに対する予言的批評として読むことは許されないだろうか。もちろん私も含めて、あの当時の視聴者たちの多くは「ひきつった、うつろな笑い」、すなわち「差異をあざとく人目をひくための手段」にする「嗤い」を浮かべていたつもりはない。しかし、『an・an』八四年九月二十一日号に掲載された、コムデギャルソンを纏った吉本の表情をみるとき、誰しもこの浅田の言葉を想起しないわけにはいかないはずだ。


つまりここではアイロニーの他者の承認を得ようとする自意識的な側面が強調されて展開されていて、アイロニーにあふれた思想空間に疲れていた身には非常に解毒的な効果があった。


著者はこのような分析を提出してその処方箋については慎重にいくつかのヒントを出すにとどまる。しかしこの本の末尾に書かれた言葉が、私としてはこの本から読み取れる最良の処方箋だと思える。


哂う日本の「ナショナリズム」は、たんなる保守化・右傾化の症候ではないし、また端的なベタ化の徴候でもない。したがって、左派的イデオロギー復権アイロニー精神の回復といった処方箋は、たぶんそれほど意味をなさない。
いや、本当に処方箋を必要としているのは、じつは、医師(のつもりでいる人びと)のほうなのかもしれない・・・・・・。歴史なき時代において、ということは処方箋=思想が敗北すること―スノッブ的否定の対象になること―を宿命づけられた時代において、それでもなお絶望せずに思想を語り続けること。この本の記述が、そうした蛮勇を動機づける契機となってくれることを願っている。


誤読かもしれないが、著者が「反省」の一カテゴリーにすぎないアイロニーがなぜかくも時代の気質を席巻し、またそのアイロニーの内実についての分析を逐一展開していったのか。それは読むものに「アイロニーはもううんざりだ」という疲労感のようなものを実感的に感じさせようとしたからではないか。いや、その疲労感に負けずにアイロニカルであり続けようということなのかもしれないが、著者が決して語らないが、その可能性の逃げ道を残すように記述しているアイロニーオルタナティヴのようなものを自分は探したいなぁ、とアイロニカルになるには信じるものがありすぎる者はつぶやくのだった。