アリストテレース『詩学』(松本仁助・岡道男訳)


要するに、『必読書150』(柄谷行人など『批評空間』という雑誌で活躍した批評家達や、彼らが在籍していた近畿大学の文学部の同僚である文学者・造形作家などが集まって作った主に人文科学・文学のブックリスト)である。

人文科学書50の最初が『饗宴』で、読んだが「ほえー」ってなもんだった(でも近々[研鑽]は書く)。次に挙げられていたのがこれである。詩、叙事詩・喜劇・悲劇など(特に悲劇)を理論的に考察し本質を説いた所であり、その詩を最もすぐれて成り立たせるための方法を挙げた技術論でもある。文芸を研究・批評するのはもちろん鑑賞して楽しむためにもこの古くもオーソドックスな前提は欠かせないだろう。たとえその技術論を成り立たせている前提、基本概念(詩は普遍性を描き、それぞれの形式には最もすぐれた固有の本質があり、それを立ち上がらせるための最もすぐれた方法がこれだ!)が今では徹底的に批判されているものだとしても。


岩波文庫ホラーティウスの『詩論』と一緒になって出ていたものを買ったが、本文と同じ位の(字が小さいから文字数は多い)注を見てため息。本文は100ページ弱だが注をふくめて倍になる。しかも注では原語がばんばん出てきてこういう意図でこう訳したということが書かれていたので、自分の能力に鑑みてばっさり飛ばした。


といいながら注をいくつか引用してみるのだが、このテクストのキー概念になるのが、「ミュートス(筋)」と「ミーメーシス(再現)」という概念である。この二つの概念についた注を引く。

(3)「筋」は、ミュートス(*本文原語)の訳。ミュートスという語は一般に、言葉、演説、物語、作り話、伝説、神話などを意味する。アリストテレースは、この語を一般的な意味(物語、フィクション、伝説、神話)で使用しているほか、さらにこの意味を深める形で、「(もろもろの)出来事の組み立て」(六章1450a4f.)、すなわち、(物語などの)構造とその原理という彼独自の意味で用いている。本書では、後者の場合、一般的な意味と区別するため「筋」という訳語を使用するが、「およその内容」という意味での「筋(あらすじ)」と混同してはならない。アリストテレースのいう筋は、悲劇の目的(テロス)であり原理(アルケー)である。つまり悲劇にその形態(構造)をあたえるものである(六章1450a22f.,38f.)。それは、(完結した一つの)行為の再現(ミーメーシス)であって(六章1450a3-5)、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で生じる、不幸から幸福へ、または幸福から不幸への変転(メタパシス)を含むものである(七章1451a9-15)。筋には単一的なものと、複合的なものとがあり(一〇章1452a12-21、一三章1452b30-33)、また、別の分類によれば、単一なものと、二重のものとがある(十三章1453a12)。筋の要素としては、認知(アナグノーリシス)、逆転(ペリペテイア)、苦難(パトス)があ
げられる(十一章1452a22-b13)。

(8)ミーメーシス(*本文原語)の訳。ミーメーシス(動詞はミーメイスタイ*本文原語)はふつう、なんらかの対象を模倣・模写することによってその模像をつくること、およびその結果として生じる模像関係をあらわす。それは、模倣、模写のほか、ものまねをすること、俳優が役割を演じること、(手本などを)見ならうことなどの意味を含む。プラトーンはこの語を彼の哲学についても用いたが、それを文芸について用いるときは模倣、模写の面を強調し、芸術的模倣、模写によってつくられた感覚像は物事の本質(真実)をあらわすことができないと考えた(『国家』)。これにたいしアリストテレースは、『詩学』において、ミーメーシスという語をより積極的な意味で使用している。すなわち詩は、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方でなされる行為のミーメーシスを通じて、普遍的なことを目指すことができる(ミーメーシスの対象である行為が「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」なされるというのは、行為のミーメーシス、すなわち筋(ミュートス)が「ありそうなこと」と「必然的なこと」の原理、内的統一の原理にもとづいて組みたてられることを含意する)。詩は、普遍的なこと、起る可能性のあることを語るゆえに、個別的なこと、実際に起ったことを語る歴史にくらべて、より哲学的であり、より深い意義をもつものである(九章151b4-7)。またそれは過去、現在のこと、人々がそうであると語ったり考えたりすることのみならず、そうあるべきことも描くことができる(二五章1406b10-11)。アリストテレースにとってミーメーシスの基準は、事物が模倣・模写されているかどうかという点だけにあるのではない。本訳ではミーメーシス(およびその関連語)は、「ものまねする、手本を見習う」などの意味で用いられる場合を除き、「再現」(representation)という訳語で統一したが、しかしこの語の本来の意味は「模倣・模写」であることを忘れてはならない。「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」という句については七章注(5)参照。


カッコ内の数字とアルファベットが何を指すのかさっぱりわからなかったが仕方なく写し、原語は自分のワープロソフトでどう出したらいいかよくわからなかったので割愛した。
この「筋」と訳されるミュートスと「模倣・模写」という本来の意味をもちつつ「再現」と訳されたミーメーシスという二つがこのテクストの中心概念になっていると思われる。


ここで「筋」とされている概念は、ちょっとだけ文学研究をかじってきた者からすると「プロット」のことかしらと思った。いわゆる筋立てであり、石原千秋先生(習った人なので先生づけ)によると継起的(それから〜それから〜)に起った出来事をたどっていくのがストーリーであるのにたいして、因果関係(なぜ〜どうして〜)から構成された出来事の関係がプロットであるという。注や本文でいえば「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」ということになる。プロットは特に定型的なエンターテイメントを書こうとするときにまず叩きこまれる技術であり、現在にいたるまでそのいくつもの定型的なプロットをもつ物語こそが多くの人を小説や物語の読書に向わせ、感動したり感情を動かされたりする一番大きな力であることは(それを通俗的なものとして否定するとしても)否めないところだろう。渡部直己は『必読書150』においてこの『詩学』が今でもほとんど通用してしまうことに偉大さとともに「情けない」という一語をたたきつけていたが、フィクションを書く上で王道中の王道を書いた最古の古典の一つを読むことによって、非常にこのプロット(と読んでいいかわからないが)の力を実感的に納得できたことは大きな収穫だった。


そうすると、そのプロットの定型的な組み合わせとはだいたい何であるかを知り体得してたいていの物語のパターンを見てとれるようになりたいと思うのが人情である。プロットの定型的な組み合わせを精細に研究した人といえばプロップやグレマスといった人が有名で、プロップなど31の要素(「禁止」「捜索」「密告」「主人公の変身」など)の組み合わせとして昔話の構造をあぶりだしたが(プロップ、グレマスも近々[研鑚]で書く)、『詩学』においても非常に簡潔な形でその組み合わせや要素が書かれている。それは注にもあるが「認知」、「逆転」、「苦難」である。「認知」はソポクレス『オイディープス王』においてオイディプスが出生の秘密を知るなどのその物語の確信となる事実を知るという出来事であり、同時にオイディプスのそれは主人公の境遇を大きく転換してしまう「逆転」を伴うものでもある(このような逆転をともなう認知こそもっともすぐれたかたちだとアリストテレスはいう)。「苦難」はホメロスオデュッセイア』におけるオデュッセウスの放浪そのもののような障害とのたたかいの過程のことだ。

この三つの要素の組み合わせによって筋がつくられるというシンプルかつ鋭い形式化から学べることは多かった。


次に「再現(ミーメーシス)」だが、こちらは少しややこしい。注にあるようにそれは「模倣・模写」であると同時に、「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」普遍的なものへと到達できるという考えにもとづいた「再現」でもある。また『詩学』から離れると宮台真司がよく話題にするある人から人などに対する「感染」をあらわしたりもするので意味がとりにくくなるが、ここでは『詩学』の注の意味で考える。


この再現(ミーメーシス)についてアリストテレスはこう述べる。

 一般に二つの原因が詩作を生み、しかもその原因のいずれもが人間の本性に根ざしているように思われる。
  (1)まず、再現(模倣)することは、子供のころから人間にそなわった自然な傾向である。しかも人間は、もっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で、他の動物と異なる。(2)つぎに、すべての者が再現されたものをよろこぶことも、人間にそなわった自然な傾向である。このことは経験によって証明される。なぜならわたしたちは、もっとも下等な動物や人間の死体の形状のように、その実物を見るのは苦痛であっても、それらをきわめて正確に描いた絵であれば、これを見るのをよろこぶからである。
  その理由は、学ぶことが哲学者にとってのみならず、他の人々にとっても同じように最大のたのしみであるということにある。―ただし哲学者以外の人々が学ぶことにあずかる程度はかぎられているが。―じじつ、人が絵を見て感じるよろこびは、絵を見ると同時に、「これはかのものである」というふうに、描かれている個々のものが何であるかを学んだり、推論したりすることから生じる。人が実物を見たことがない場合、絵がよろこびをあたえるとすれば、それは、絵が再現であるからではなく、仕上げの巧みさ、色彩、あるいはこれに類する他の原因によるものであろう。
 再現することは、音曲とリズム―韻律がリズムの一部であることは明らかである―とともに、わたしたちの本性にそなわっているものであるから、最初は、これらのことがらに生まれつきもっとも向いている人たちが、即興の作品からはじめて、それをすこしずつ発展させ、詩作を生み出した。
  しかし詩作は、作者固有の性格にしたがって二つにわかれた。すなわち比較的まじめな性格の作者たちは立派な行為、すぐれた人間の行為を再現したが、割合軽い性格の作者たちは劣った人間の行為を再現した。前者が賛歌と頌歌をつくったのにたいし、後者ははじめ諷刺詩をつくったのである。


とてもわかりやすく書かれているが、ものすごい大胆な力業で多くのことを定式化している。この複雑で困難な問題をきわめて明快に定式化したところが、このテクストが今にいたるまで大きな影響力をほこる古典となった理由なのだろう。

私はポストモダン的といわれる考え方に強く影響された批評家や学者から文学についての考え方を学んだので、このようなメインストリームの考え方をよく理解もしないまま、反射的に眉に唾をつけてしまうことがままある。人間や創作の背後に疑いえぬ真実、普遍性を想定し、そこから整合的な定式を導きだしていくような考え方は、疑わしい!というわけである。


しかし疑う前にその王道になった方法の必然性や、その方法によって問題がきわめて明快に整理され見えてくるものがあるという魅力をきちんとおさえなければ、いくら眉に唾をつけても空疎な懐疑にしかならないだろう。そういう意味で力業といったが、その力技の威力に私は圧倒された。


引用部分で、再現は人間にそなわった本性であり、再現すること、再現されたものを見ることを人間は喜ぶ。それは経験的にわかると断言されている。そうですかー、としか言いようがない。たしかに自分の経験的な実感としてはその通りである。

そしてそう想定すれば「すなわち比較的まじめな性格の作者たちは立派な行為、すぐれた人間の行為を再現したが、割合軽い性格の作者たちは劣った人間の行為を再現した。前者が賛歌と頌歌をつくったのにたいし、後者ははじめ諷刺詩をつくったのである」というような「おいおい」といいたくなるような人間の性格類型と文芸のジャンルの相関関係の定式なども導きだせる。恐ろしいのはこれも「経験的には」たしかにだいたいそうかもしれないと思わせる説得力をもっていることだ。


このような再現のもっともすぐれた作者はホメロスだとアリストテレスはいう。

 ホメーロスは、これらのものすべてを最初に、十分な仕方で用いた詩人である。じっさい彼の二作品について見るなら、『イーリアス』は単一な構成であって苦難をあつかい、『オデュッセイア』は複合的な構成であって―なぜなら全体を通じて認知がおこなわれるからである―性格をあつかっている。さらにこれに加えて、語法と思想の点においても、ホメーロスはほかのすべての者にまさっている。


ここでなぜホメロスが最もすぐれているかの根拠とされているのが「筋」の巧みさということである。「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」組み立てられた筋が、作品全体において統一的に展開されている、そのような「再現」こそが人間の本性であり、普遍的なものに到達しうるものであるから、となるわけである。


私はホメロスはもちろんこの時代までの文芸自体読んでなく比較できない無教養人であるが、とりあえずこのテクストが現代にいたるまでのフィクションのもっとも大きな求心力をもった要素について明快にとらえている(今にいたるまでそのような影響をあたえた)ことはわかる。そしてそのようなメインストリームを提唱した最初期の古典を読むことによって実感的に理解することは、ピントがはじめて合ったと思わせるような充実感をもたらすことを知った。これが古典の力か。やはり『必読書150』なのである(経済学、法学に理系的な基礎教養が弱いとはいわれてるし、そこは補わなければならないのでしょうが)。