プラトン『饗宴』久保勉訳

正直つかみどころがないというのが最初の印象だった。なので訳者の序説を引き写しつつ検討してみた。

まず第一に、この対話篇―これがプラトンの真作であることについては誰も疑いを抱いた者はない―が書かれた年代については、本篇中の一個所(193a)から推定して、単にそれが紀元前三八五年以後(それも恐らくあまり長くはたたなかったろう―およそ三八三―五年―と推定されるのであるが)でなければならぬと主張しうるだけである。

次に、その形式からいえば、この対話篇には、『ファイドン』におけると同様に、間接説話法が用いられている、しかもそれは二重の間接説話なのである。すなわちプラトンは、アポロドロスが一六年ばかり前(紀元前四一六年)に若い悲劇詩人アガトンの催した祝勝宴における列席者の一人アリストデモスからそれについて聴いたところをふたたび二三の友人に物語ったことにしている。ところがそれがいつの事であるかは明らかではないが、諸種の暗示から推して、プラトンはその年代をおよそ紀元前四〇〇年頃に置こうとしているものと思われる


成立年代と作中年代はこの辺りらしい。そして特徴的なのがここで語られている饗宴に参加したアリストデモスから聞いた話をアポロドロスが物語るという伝言ゲームか?的な語り形式になっているということだろう。

さらにまた二重の間接話法の形式を採っているのもやはり詩的自由のためではないかと思われる。しかし他方において、プラトンが用意周到にも説話者として特にアポロドトスとアリストデモスのごとき熱心ではあるが、空想ないし創作の能力の欠ける弟子を選び出し、しかも疑わしい点に関しては一々親しくソクラテスについてこれを質させているのは、その物語るところが少なくとも要点に関するかぎり忠実な信頼するに足るものであることを暗示しようとしている証拠と見られる。とりわけアルキビヤデスがソクラテスについて語る場合には、幾度も念をおして真実ありのままを語ろうとする意図を明言させているが、彼の証言はソクラテス自身の沈黙によって裏書きされているのである。かく観来れば、本編が、プラトンの諸他の対話編と同様に、一種の『詩的』創作であることは争い難いとはいえ、したがってここに物語られるような祝勝宴がはたして実際催されたかどうかは疑わしいけれども、少くともソクラテスの人物性行に関してはやはり歴史的真実を伝えんとする意図をもつことは明らかであると思う。また実際、プラトンが本篇中の人物に語らせていることは少くともいずれもきわめて真実らしいという印象を与えるのである。したがって時代錯誤のごときも慎重に避けられている。要するに本来詩人でもあるプラトンがその詩的天分を最高度に発揮せる本篇は順歴史的意図をもって書かれたというよりも、むしろ単なる史実を超えて観念化された、すなわち本質的意味における真実を伝えようとしているのである。それは真実の歴史に属する具体的細目(特にソクラテスの言行においては)を含むことはあっても―ここでも史実の上に多少の手心が加えられることもあるであろうが―全体としてはやはり観念化された真実を伝えんとする歴史小説と比較することもできるであろう。


訳者は二重の間接話法についてこのように解説しているが、要点においてソクラテスらの人物像らを伝えるのに信頼に足るものでありつつ、プラトンの創作的自由を確保するための技法と考えても二重の間接話法にするというのは迂遠にすぎるという感じはいなめない。むしろ現在までの文学理論やポストモダン(高橋哲也『デリダ』で紹介されているデリダによるきわめて見事なプラトンパルマコン読解など)を通じてみると、テクストの「語り手」論や不透明な言語による伝達によって過剰な意味が生まれてしまうことによる全く別の読解が可能になるテクスト性の理論から見てとても読解欲をそそられる作品だと思わせるものになっている気がする。


本題にもどすと、訳者のいう『饗宴』の概要は以下のように書かれている。

内容の上から見るならば、この対話篇は前、中、後の三段(又は三幕)に分けることができる。すなわち最初の五人のエロス賛美演説と、ソクラテス―ディオティマの愛の説と、最期にアルキビヤデスのソクラテスに対する賛辞である。前段の五人の演説が大体において当時の学者(哲学者やソフィスト等)や教養ある人々の間で行われていた説であることは、これを現に伝わっている文献によって一々指摘することはできぬけれども、およその推測を下しても大過ないであろう。

前置きの話に出るアリストデモスとの戯談交りの会話においてプラトンはまず快活で機知に富んだ社交好きのソクラテスを、それからアガトンの家へ行く途中突然街道を外れて近所の家の入り口へゆきひとりそこに立って何事かを考え込んで動かぬところ(174d-175c)を描くことによって思索家としての師の特徴を示そうとしている。(同じような逸話は後段アルキビヤデスの話にも出るのである。なお同じ話の中には美しき若者に対する愛情を解する者としての、また戦場における勇士としてのソクラテスの面目の躍如としている場面もある。第三幕の末尾では彼が酒にも郡を抜いて強い様が描かれている。かくしてプラトンはその師の全貌を描出したのである。同じ人のこの両面がいかに著しい対照をなしていることよ!)


宴席におけるエロス(愛)についてのソクラテス含め六人(+乱入者一人)の演説と対話の記録(ただしここで語られる宴席では参加者が順に演説をしているということになっており、この六人はその中でアリストデモスが記憶に残っているものをアポロドトスに伝え、その伝えられたことをアポロドトスが語っているという形式になっているので実際の演説者はかなりいたことになる。ややこしい)を二重の間接話法で語られるというのがこの作品の中身である。


その前提となるアテナイの貴族的な生活において驚いたのが、ソクラテスなどアテナイ市民が、哲学者や医者、劇作者、政治家などとともに戦士であるということである。実際の兵士として戦場に立っていたものが他方ではこのような高踏的な宴席をしていると考えると、この時代の哲学者などの凄みを少し垣間見えるような気がした。


演説者はそれぞれはじめから、ファイドロス、パゥサニヤス、エリュキシマコス、アリストファネス、アガトン、ソクラテス、乱入してエロスではなくソクラテス賛美をはじめるアルキビヤデスの六人+一人である。


内容はそれぞれの論者がエロスについての様々な面を照らしていき、それをソクラテスがそれらは意見であって真実ではないと一蹴し、自分がディオティマという婦人から教えをこうた話を述べながらエロスを善きものへの愛でありそれは最終的には「智慧への愛」となると論じるにいたる、となる。


このソクラテスが自分の前に演説したアガトンに質問しながら相手の論をつぶしていく様は何というか・・・いやらしい。

『では、人は自ら欠いていて所有せぬものを愛求するものだということにわれわれは意見が一致した訳だねえ?』
『そうです、』と彼(引用者注・アガトン)はいった。
『するとエロスは美を欠いていて、それを持っていないことになるねえ?』
『必然に、』と彼は答えた。
『では、どうだろう?君は美を欠いていて、まるでそれを持たぬものを美しいと呼ぶわけか?』
『いいえ決して。』
『こういう次第でも、君はやっぱりエロスは美しいという意見なのかい。』
そこでアガトンはいった。『ソクラテス、僕のさきほどいったことは、どうも自分でもまるで分らなかったのかも知れませんね』
『でも君の話しぶりは実に立派だったよ、アガトン(とソクラテスは対えた)。だが、もう一つ一寸したことをいって貰いたい。善きものははまた美しくもあると君には思われないか。』
『ええ、そう思われます。』
『ところが、もしエロスが美しきものを欠いており、しかも善きものが美しいとしたら、彼はまた善きものをも欠いていることになるね。』
ソクラテス(と彼は答える)、僕は貴方に反対することができません、あなたの仰っしゃる通りでしょう。』
『いや、むしろ真理に対しては(とソクラテスはいう)、親愛なるアガトンよ、君は反対することができないのだよ。ソクラテスに反対するのは何もむずかしいことではないのだから。』


めちゃくちゃ嫌なやつであると思ったのは私だけだろうか?
この調子でソクラテスはアガトンをやり込めるのだが、面白いのは自らもディオティマとの対話を語るとき、ディオティマに同じようにやり込められていくさまを語るのである。

「では簡単に、人間は善きものを愛求する、とこういってしまってはいけないでしょうか。」
「いいですとも」と私(引用者注・ソクラテス)は答えた。
「ではいかがでしょう?(と彼女はいった、)人々は善きものを所有することをもまた愛求すると付け加える必要は無いでしょうか。」
「必要がありましょう。」
「それから(と彼女は言葉を続けた)、単にそれを所有することだけではなく、さらに所有することも、でしょう?」
「それもつけ加える必要があります。」
「では、(と彼女はいった)要するに、愛とは善きものの永久の所有へ向けられたものということになりますね。」
「全く仰っしゃる通りです、」と私は答えた。


相手の質問にたいして言うとおりだと答えるしかなくなる姿がとても先のアガトンとの対話に似ている。そしてソクラテスが語るエロス論はこのディオティマの考えを紹介することでなされているのでこの作品内でさまざまな考えを止揚する最終回答のようなものはとくに有名でもなさそうな婦人であるディオティマによってなされているといことになる。こういう所もテクストの解釈欲を駆り立てるところの一つだろう。


輪郭だけをなぞるようにきたが、なかなか自分なりに読みこなすということはできなかった。もう少し勉強した後で再挑戦したいものの一つだ。