聖アウグスティヌス『告白』服部英次郎訳、岩波文庫


上下巻である。どちらも300ページ位ある。そして情けないことだが、アウグスティヌスについてほとんど知らなかった。表紙に「ローマ時代末期の最大の神学者・思想家アウグスティヌス」とあるので神学者なのかと思ったしだいである。


しかし読み終わってみると案外面白かった。『必読書150』では奥泉光が解説を担当していて、『告白』を日本の私小説と比較し、自己は他者との関係においてあるから自己を語ることは自己をかたちづくる他者との関係の考察にむかわなければならない、しかし私小説は私が私だから私があるという呑気な自意識の吐露にすぎない、というようなことを書いていた。


ここでこの『告白』内で他者としてあるのは、ありふれた隣人ではなく、「主」つまり神である。アウグスティヌスはこの本のなかで幾度となく「主よ」と呼びかけ、自らの罪を告白し、神を賛美するかたちで叙述を進める。この神という超越的な他者との関係によって自らを語り、またそのように語る自分のような神の被造物の原理となる記憶・時間等についての省察を組み合わせた構造にテクストはなっている。


アウグスティヌスの生きた年代、『告白』が書かれた時期について服部英次郎氏の解説から引く。


アウレリウス・アウグスティヌスは、三四五年十一月十三日、当時はローマ領北アフリカヌミディア州の農林業地帯の中心地であったタガステ(現在はチュニジアの首都チュニスに近いスーク・アリス)に生れた。


このアウグスティヌスの改心は三八六年、かれの三十二歳の夏の終わりのことであったが(後略)


これに対してアウグスティヌスは、四二一年から『ユリアヌス反駁』(原語割愛)全六巻を書いて、最後までその筆をやまなかったが、その最後の巻はついに死のために未完に終わった。


アウグスティヌスが、後代のキリスト教思想に及ばした影響はじつに甚大であって、一二世紀末に至るまで、中世思想の進路を定めただけでなく、十三世紀におけるアリストテレス哲学の受容(とくにトマス・アクィナスによる)後もなお存続したのであり、また十六世紀における改革者たち、ルターやカルヴァンもまたアウグスティヌスに負うところが少くなかった。アウグスティヌスのしっかりとした知性と深い霊的洞察がなかったなら、西洋のキリスト教思想は今日あるのとは違った形をとったことであろう。


アウグスティヌスの告白(Confessiones)が書かれたのは何年であるか、それは正確には定めがたいが、だいたい四〇〇年前後に―三九七年からおそらく間をおいて―書かれたものと思われる。その執筆の意図については、再論の書において、「告白の書全十三巻は、わたしの悪と善に関して、義で善である神を賛美する」としるされているが、ヒッポの司教として令名のますます高かったアウグスティヌスの過去と現在を知ることを願う人びとの希望にこたえて書かれたのであろう。それでは、アウグスティヌスのいう告白とは何であるか。告白といえば、ふつう、罪の告白であり、アウグスティヌスの書はかつて「懺悔録」と訳されていた。この書が罪の告白を多分に含むことは事実であるが、それはまた同時に神に対する感謝と賛美である。くりかえしていうと、罪の告白と賛美とは一つであって、これが「わたしの悪と善に関して、義で善である神を賛美する」といわれていることの意味である。すなわち、アウグスティヌスは、自分の罪深い生活のうちに神の恩寵がもっとも明らかにあらわれているのを認めて、感謝と賛美をささげたのである。したがって、かれの書は、近代人の「告白」の諸書とは厳密に区別されなければならない。それらが高慢と自己顕示の筆に成るものであるのに対して、アウグスティヌスの書はまったく謙虚の生むところのものである。


76年の生涯だったということか。改心が32歳で、神学者としての活躍はそれ以降となるのが遅めな感じがして面白い。それまでは弁論術にうちこみ、肉欲におぼれ、マニ教というカトリックとは違うキリスト教の別の流派にはまっていたりしたらしい。


上巻ではアウグスティヌスの半生が語られ、下巻では抽象的な神の被造物のもつ記憶や時間、『創世記』の首章についての注釈が語られる。


また解説からひけばアウグスティヌスにとっての絶対的他者である神とは以下のような存在のことを指すらしい。


アウグスティヌスによると、神は絶対的存在、絶対的善であるから、それに対するのは、まったくの無、善のまったくの欠如であり、そしてこの両者、すなわち、神と無とのあいだに被造物は位置する。被造物は、神によって無から創造されたのであって、神によって造られたかぎり、存在をもち、善といわれることができるが、無から造られたかぎり、存在と善とを欠いている。それは、存在と善とよばれるすべてのものを欠いてはいないが、しかし、神のようには、絶対的な存在と善とを持っていない。すなわち、被造物は相対的存在であり、いわば、無をまじえているのであって、たえず無に帰する危険を免れない。人間の生活全体がたえまのない欲求と幸福の追求であるのも、人間が被造物であって、その善をそれ自身のうちにもたずに、その外に求めねばならぬからであり、その存在の欠如をみたさねばならぬからである。すなわち、人間は被造物であるかぎり、欲求せねばならぬのであって、問題はその欲求をなにに向けるべきかということである。さて、この欲求の対象は神か、この世か、いずれかであって、神に向けられた欲求はカリタス(愛)とよばれ、この世に向けられた欲求は、クピディタス(欲望)とよばれるのであるが、そのうち欲求の本来の目的に到達するのはカリタスのみである。というのは、人間の欲求は、本来、その存在の欠陥をみたそうとするものであるのに、この世にむかうクピディタスは、人間よりもなお空しいものによってそれをみたそうとするからである。すなわち、それ自身よりもなお空しいものによってそれ自身の空しさをみたそうとし、それ自身もなお消滅的なものによってそれ自身の消滅性を免れようとするわけである。したがって、このような欲求をつづけるかぎり、人間はたえず一つのものから他のものへと追いやられて、けっして終局的な休息に到達して満足することはない。人間の欲求を終極的にみたすのはただ神のみであって、神のうちに満足を求めるものはその求めるものをじっさいに見出すのである。神は不変的な善であり、絶対的な存在であるからである。このような形而上学をいわば背景として考えると、『告白』巻頭の一句はその真意をいっそうよく理解されるであろう。すなわち、神は絶対的に欲求のないもの、休息そのもの、永遠の平和であるのに対して、わたしたちは、無から創造されたかぎり、消滅的なもの、欠陥のあるもの、たえず欲求するものであり、しかもその欲求を神に向け、休息を神のうちに見出すべきものである。つまり、神における休息が被造物の目標であるということが『告白』の根本思想なのである。


神は欠けることがなくまったき善であり、人間は不完全でそれが欠如しており自らの外部に欲求する。その欲求が神にむけられれば愛で、別のものを対象とすれば欲望となり、まったき善は神を愛することによりのみ得られ、それは永遠の平和、休息である、と。


アウグスティヌスカトリックに反発し、当時首席をとるなど優れた知性で学問をおさめた。しかしそのような上記でいえば欲望にふりまわされた果てに神という超越的な存在を改めて見出し、その超越的な存在を前提とし、その絶対的他者と語り合うことで不完全な人間の原理を考察する。このような形が神学的、あるいは「超越的」と呼ばれる思考なのだろうな、と思った。たしかに『告白』を読んでも、超越的な議論は明快に世界の割り切れなさを説明してくれる。その魅力はよくわかった。実証主義などはそのようなものを一蹴し、仮説と検証をもって事実を積み上げていくが、新たな実証主義の波となり今論壇的には力をもっている生物学や臨床心理学のような成果をちらっと見ても今なおそれで世界が割り切れた気がしないという感覚は残る。そのようなものに飽き足らぬ人にとってこのような超越的な議論はやはり求心力があるだろう。今では神学的な議論が一般的に通用するとはいいがたいが、しかし超越的なものはないが、超越的なはたらきをしたり超越的なものをどうしても求めてしまうようなメカニズムを見る「超越論的」な議論はまだ力を持っている。このような議論が派生しているもっとも大きな源流の一つとして、この本を読んでおくと見通しが立ちやすくなりそうだという手ごたえはあった。