浅沼圭司『ゼロからの美学』


大学の時の先生で、凄い先生だという評判も聞いていた。しかし授業はとらず卒業してしまい、今ごろふとこの本を見つけ読んでみた。


学部生向けの美学の入門的な授業をもとに書かれたもので、とても平易に美学について解説されている。美学については特に音楽美学についてきちんと基本的なことくらいは身につけたいと思うのだが、この本に関しては精読して身につけようというというよりは美学の必要性・有用性を確認しちゃんと学ぼうという気持ちをかためる門前書として私は読んだ。色々な大学の美学入門のテキストとして使われてもいるのでもっと深くも読み込めると思うが、とりあえず『必読書150』にかかずらっているので軽く読んだ。


そのため本の全体的な要約や構成よりは面白いと思ったところを適当に引用していく。

あらゆる「存在するもの(存在者)」の根源に、神あるいは超越的な存在を想定するのは、ある意味では自然なことかもしれないが、「存在するもの」とはまた「かたちあるもの」にほかならないだろうから、このことは、すべてのかたちの根源として、神あるいは超越者が想定されていることを意味するはずである。いいかえるなら、あらゆる「かたちあるもの」の起源には、神ないし超越者という絶対的、根源的なかたちが想定されていることになるだろう。このようなかたちについての考えを「かたちの形而上学」と呼ぶことも、ある意味では可能だろう。

本はまず美学とは何か、美学の存在意義は何か、美学の基本的な考え方はなにかという問題にむきあう。オーソドックスな知見に通じ、かつポストモダン的な相対化の思考にも柔軟に対処している著者ならではの落ち着いたバランスのとれた考察がなされる。その中で基本的な美学の考え方としてプラトンを中心に考えるのだが、そこで「かたちの形而上学」という「かたちあるもの」の向こうに超越的なものを想定する思考を根本的な思考として紹介している。それ自体はプラトンの入門書などでどこでも書かれているありふれたものかもしれないが、この本ではその形而上学によって美学の基本的な思考を説明するときの鋭い単純化・形式化が鮮やかで問題がとても簡単に把握できるように思える。しかしそれは長い研鑚に裏打ちされているのだろうな、と思わせる慎重さも備えた上である。そのため語り口がやわらかく断定を控えるようなものになっているため刺激的でないとか退屈と感じる人もいそうだが、私は重みのある足取りを、しかしなめらかに書こうとする文体を面白く読んだ。


美や芸術・文化とは何かということを考える美学の考えをいろいろと紹介する中で面白いと思ったのが遊びの意義を考察した箇所だ。

個人のあいだのことなった性や年齢などや、国家や民族や宗教などから生じる抗争は、人間にとって、じつは、本質的とさえいうべきものかもしれない。にもかかわらず、類として他と共存する―あらゆる差異を解消する―意外にその存在を維持することができないのもまた人間なのだろう。
いま述べたような、人間的な現実においてはいかんともしがたい差異とそれにもとづく抗争が、たしかに一時的であるのかもしれないし、また実際的ではないのかもしれないが、解消にもたらされるのが、あそびにおいてであり仮象においてである、そう考えることはできないだろうか―オリンピックの意義は、まさにこのことにあるのだろう。あそびは、仮象は、人間が他に対する差異―「個別性」―を実際に失うことなしに、他との「共生」を実現しうる、おそらくただひとつの機会であり、場ではないだろうか。とすれば、あそびや仮象は、人間にとって余分なものどころか、まさに不可欠のものであり、むしろすぐれて人間的なものというべきことになるだろう。つぎのように考えることもできる。現実的な世界で生きる人間は、個性を発揚し、自由を求める一方で、類的存在として社会(制度)のなかで、その「とりきめ」にしたがわざるをえなかった。人間は、こうして矛盾のただなかで、あるいは自由と制約に引き裂かれて、生きてゆかざるをえない。そしてこのことは、ひとびとにつよい緊張をしいるだろう。特別の状況においてではなく、ただ生きることが、それだけで、意識的にせよ無意識的にせよ、緊張をしいるのだから、その連続はやがて強度のストレスをもたらすだろう。存在する(生きる)ことそのものがもたらすストレスをなんらかの方法で解消すること、それもまた生きるためには不可欠のことなのだろうが、そのようなストレスを解消するものとしてあそびや戯れあるいは仮象があるのではないか。その意味でもこれらのものは、人間の生にとって不可欠のものといえるだろう。


わりとよく聞く話ともいえるが、遊び・文化・芸術の意義として何度もたちかえるべき基本だろう。


美学の具体的な分野についてもさらっとまとめられているがわかりやすい。

「美学」―「一般芸術学」―「個別芸術学」―「個別芸術史」―「個別研究(モノグラフ)」
 対象:一般的(抽象的)→個別的(具体的)
 方法:思弁的→実証的


この本の白眉と思えるところは、詩の解釈を実践的におこなってみせるところで、平仮名の多いなめらかで繊細さを感じさせる文体が活かされた官能的でいきとどいた分析が展開される。長い引用だが(自分の引用は必要限度を越えてるのではないかと少しびびっている。私としては必要な分を引用しているつもりだが・・・)紹介する。

感性的言語活動の特徴について、詩を例に、もうすこし詳しく考えてみよう。選んだのは、わが国の代表的な詩人のひとり、藤原定家の作品である。ところで感性的言語活動について考える場合、文学作品を例にすることは、方法として有効なのではないか。なぜなら、文学作品は言語(国語)にもとづきながら、あきらかに普通の言語活動とはちがう特徴をもつと思われるからであり、そのちがいのもっとも大きな原因となっているのが、感性的資質のゆたかさであると思われるからである。
   きえわひぬうつろふひとのあきのいろに
     みをこからしのもりのしたつゆ   『夏日侍 太上皇仙洞同詠百首慶 製和歌』
この歌にはじめて接したひとは、おそらくあるとまどいを感じるだろう。ここでは、問題をはっきりさせるために、漢字を用いずにすべて仮名表記にし、しかも濁点をはぶいているが、とまどいはそのせいだけではないはずだ。この仮名の連なりを個々の単語に分けることがまずむずかしいだろうし、単語に区分したとしても、こんどは単語のあいだの関係をとらえることが容易ではないだろう。この歌が、短歌に特有の「五・七・五・七・七」という音節構造をもつことは―ただし第三句は字余り―、だれにでもわかるだろうが、五つの句のあいだの(意味の)関係は、おそらく明瞭には把握しがたいだろう。この歌の意味を明確に(一義的に)とらえることは、むしろ不可能にちかいかもしれない。しかしそれは、かならずしも古語に関する知識の欠如だけによるのではない。なぜなら、定家の歌は、その当時においてさえ、「新儀非拠達磨歌」―あたらしいだけで、根拠のない、達磨大師のはじめた禅のように、とらえどころのない歌―として、その理解しにくさが非難されていたのだから。
 たしかにわかりにくい。しかし意味がとらえにくくても、いやとらえにくいからなおさら、この歌の聴覚的な性質が、ゆたかな音のながれが、ひとびと意識をとらえるのではないか。たとえば、第二句から第三句にかけての[o]という母音の連続―[ro][to][no][no][ro]―、おなじく第四句から第五句のはじめにかけての[o]音の連続―[wo][ko][no][mo][no]―。第二句から第五句までの二十七音節中、十の音節が[o]音を含み、そのひびきあいのなかで、音がゆたかにながれていく。上半句の、全体としてはやわらかな音の連続のなかに、硬質な音をひびかせてきわだつ[ki]の音、この音をふくんだ「きえ」「あき」という語は、意味のうえでも重要な役割をはたしているようだ。このような音の特徴は、けっして偶然のもたらしたものではなく、あきらかに作者によって作りだされたものであるが、このような聴覚上の特徴が、日常の会話は普通の文章にはみられない独自の魅力―聴覚にとっての魅力―を醸しだしているとは考えられないだろうか。単語に分解したり、あるいは意味の関係をとらえるまえに、この歌を声に出してよんでみたらどうだろう。おそらく独特な音のながれが意識され、それがこの歌にすでに一つのまとまり―かたちとしてのまとまり、「形式的統一」―をあたえていることが感じられるだろう。そしてこの聴覚的(形式的)なまとまり(枠組)によって、語と語のあいだに、単純な(一義的な)意味の関係をこえたつながりが作りだされる。
 語と語のあいだに、一般的な意味のうえの関係を見出すことはたしかにむずかしいが、「五・七・五・七・七」という音節構造によって、この文字の連なりが「短歌」という特別な言語活動であることが認識されると、おおくのひとは、中学や高校の国語の授業を思いだすなどしながら、短歌に特有の技法あるいはコードによる、普通の言語活動とはことなった語の関係―たとえば「縁語」や「掛詞」などによる、語のあいだのあたらしい関係―を探しはじめるのではないだろうか。そして、一つ一つのことばが、ただ一つの意味ではなく、複数の重なりあった意味で用いられていることにやがて気づくだろう。たとえば第二句冒頭の「うつろふ」という語には「人の心が他に動く」「花や葉が散る」「あせる」「影が映る」などという意味があるのだが(『岩波古語辞典』)、この歌では、これらの意味のすべてが重ねられており、そしてその重なった意味と、他の語のおなじように重なった意味とのあいだに、いくとおりもの関係が生じるだろう。このような語の関係―通常の約束にとらわれない自由な関係という意味で、むしろ語の「戯れ」というべきかもしれない―によって、「うつろふひとのあきのいろ」という語の連なりから、たとえばつぎのような意味が浮かびあがってくるだろう。こころがわりしたひと、ひとのこころのうつろいやすさ、木の葉の散り落ちる秋、あせゆく木々の紅葉、あるかなきかに映じる(映ろう)色、いまは失われてしまった愛のかすかな反映、など。「あきのいろ」は「秋の色」であり「飽きのいろ」でもあるだろう―ひととの関係に飽きてしまった、そのこころのふとした現れ、はじめのころの輝きを失ってしまった愛・・・・・・。「色」は「色情、色欲、情人、情事、そして形相、有形の万物」を意味するという(『岩波古語辞典』)。このような意味を、さきに読みとったものにさらに重ねてみよう。「うつろふ」は、「盛りの時が過ぎる」ことを、そして「色」はまた「容色」を意味するから、衰えはじめた容色とそれに飽きたひとのこころを読みとることさえできるだろう―すくなくともそう読むことを禁じるものはここにはない。「こからし」はいうまでもなく「こがらし」であり「木枯し」だが、「こがれ」というひびきをここから聞きとるなら、「焦がれ」という意味が現れてくるだろう。「恋い焦がれる」「焦がれ死ぬ」「恋いのゆえに命を落とす」「みをこがらし」―「身を焦がす」「恋いのゆえに身もこころも焼きつくす」そして「そのような燃えつきた身とこころに吹きすさぶ、冷たい風」など。「こからしのもり」―「こがらしの杜」は『枕草子』に駿河の地名として引かれているが、むしろ「吉野」や「志賀」あるいは「明石」や「更級」などのような、和歌の伝統のなかで、あるイメージと結びつけて用いられている、いわゆる「名所(歌枕)」の一つととるべきかもしれない。「もりのしたつゆ」はあきらかに「森の下露」なのだが、「もり」から「洩る」が、「つゆ」から「なみだ」がごく自然に読みとられるだろうから、「洩れ出る涙」とも読まれるだろうし、「下」はもともと表面に現れない、目につかない場所を意味するのだから、「下露」はひそかに流す涙ともとられるだろう。「もりのしたつゆ」はこうして「一目につかないようにこらえようとするのだけれど、こらえきれずひとりでにこぼれ落ちる(したたる)涙」を表しさえする。ここからまえにさかのぼって「うつろふ」から「うつ」を聞きとり、木枯しが森の木々をうつと読むこともできるだろうし、あるいは「うつろ」から「うつろなこころ」、消え去ってしまったあとの「うつろ(空虚)」のイメージを作り出すこともあるだろう。
 第一句「きえわひぬ」は「きえわびぬ」だが、「消え詫ぶ」は、さきとおなじ辞書によると「身も消えいる程に、気力を落とす。死ぬほどに元気をなくす」という意味をもつ。そしてこのような語の、意味の戯れのなかで、最後の語(つゆ)と最初の語(きえ)はやがて循環する関係におかれるだろう―「露、消え」「露と消え」、いうまでもなくここには死の暗示がある。そして「つゆ、きえわぶ」という連関から、涙が消えかねている、流すまいと思うのに流れる涙、そのことがもたらす侘しさ、つらさなども現れるだろう。こうしてことばの錯綜とした関係(戯れ)はかぎりなくつづき、さらにゆたかなイメージを織りなしてゆくのだが、ここではそのごく一部を例として示したにすぎない。


こじつけと山形浩生のような精読→細部を過剰に読み込み新解釈を出すということを嫌う論者なら言いそうだが、私はとても面白く読んだ。著者の凄みをさらりと垣間見せているような感じがして、ともすれば平易すぎて物足りないと思わせるかもしれない読者をひきこむものになっている。