荻上チキ『ウェブ炎上』


著者からいただいた。あとがきにも謝辞をもらい、最近はそれに足るようなこともしてなくて申し訳ないかぎり。せめて真面目に書評をしてみる。


著者はこの本の狙いを以下の三点だという。


「インターネットのある世界」は、技術や慣習、価値観、ことば、思想、制度を含めたさまざまな変化を伴いつつ、これからも広がり続けていくでしょう。本書は、そのような変化をある程度自明のものと踏まえたうえで、その変化に価値判断を下すより前に、まずはインターネット上で行われるコミュニケーションの「しくみ」に着目し、その理解を共有できるようにしたいと思います。
 そのため、本書では多くの方が既に知っていると思われるウェブ上の「事件」であっても改めて取り上げ、適宜解説を加えています。多くの人と事例を共有することで、インターネット上の集団行動についてきちんと議論できるようにするためですが、それと同時にインターネットに興味のない方にも「世界の珍事件」を見るかのように楽しんでいただくためでもあります。
 その一方で、多くの読者の方にとっては「耳慣れない」と思われるいくつかの専門用語を、適宜解説を行いながら紹介しています。いくつかの用語やフレーズを共有することで、お読みいただいた方のインターネット上の集団行動に対する観察方法が、今後大きく変わることを期待してのものです。新しい言葉を知ることによって頭の中がすっきりと整理できたり、目の前で起こっている出来事が何であるのかを的確に把握できたりしますし、それに対する対応もうまくできるようになることでしょう。

 



つまり1.インターネット上の既存のメディアと違うコミュニケーションのメカニズムの分析、2.そのコミュニケーションがさまざまな形で話題になる事件になった事例の紹介、3.それらの分析のために必要な専門用語の解説、というわけだ。


その中で著者の本領は2の事件になった事例の紹介の豊富さだろう。中には著者が自ら調査し一部ではあれネット上で話題になったものも何例か含まれている。それらのトピックが多くブログで展開されたことを考えれば、ブログでの活躍が契機になって生まれたのであろうこの本の中で2の部分が白眉であるのも当然だろう。


また1と3においても(2でもそうだが)興味深い著者のある才能が現れている。それは「人文的な最先端アカデミック言語で現象を語りたい」という欲望に十二分に応える専門用語の多さと、それらの用語の羅列の中に見え隠れする、現在の時点でのジャーナリスティックな意味で株の高い語を選ぶある種の流行への敏感さである。
 ほめてない、と思われそうだが、そうではない。この本が想定するようなさほどこの分野の素養がないが、それを知的にわかって語りたいという人は、多くができるだけ簡単に最大の効果を得られる形で知ったかぶりができるようになりたい、という欲望ももっているものだ。しかもそのような知ったかぶりを第一歩にして、本当に知的な探求をはじめる人も少なくないのだから、そういう欲望にきちんと対応したものが書けることは一つの才能であり、それなりのマーケットの需要があるコマーシャルな能力を持っているといえる。そして著者は別の分野においてもこのような本を書くことができるだろう。つまりこの先も長く著述活動がみこめる力をもっているということだ。


できるだけ簡単に最大の効果を得られる形での知ったかぶりをするためには聞いたことない人にはわからない言葉を知って使えるようになるのが有効な一つの方法である。だからこそこの本ではこれでもかというほど様々な述語が出てくる。私も俗っぽくて情けないが、知ったかな欲望をもっているので本書でアジェンダ、エコーチェンバー、カードスタッキング、カスケード、ネーム・コーリング、バンドワゴン、コンテクストマーカー、アーキテクチャハブサイトなんて言葉を知り、隙あらば使おうとしかねない。


上記の理由でこの本にはインターネットにおいて人文学の分野で旬な人達や、そういう人が重要視する本が参考文献にずらっと並び、そうでない地味な研究や、意外な古典はほとんどない。また多くの術語も、ポストモダンの盛衰を見てきた身としては多くの語が長い先々まで使われるまえに泡沫的に消えていくだろうことも想像がつく。そういう長い先まで使えるかと厳しい吟味を経た上で書かれていないと批判することもできるが、むしろ上で勝手に想像したようにまず多く読まれなければ意味のない啓蒙書に必要な要素としてジャーゴン(内輪に閉じた専門用語)の過剰や流行追随のリスクを抱えつつ、そのようなスタイルを選んだというべきだろう。そしてそれは既に述べたようになかなかそこらへんの人にはできない優れた能力である。


広く専門用語や事例を紹介しているために、本書独自の分析は簡潔な形にとどめられている。その中でも肝になりそうなのは「二重のカスケード」だろう。カスケードとはこの本では「もともとは『小さな滝』を意味する言葉です。つまり多くの水滴やせせらぎより低いところを目指して流れていった結果、滝のように一ヶ所へと勢いよくなだれ込んでいく現象をイメージしていただければわかりやすいでしょう」とある。この語が転じて「サイバーカスケード」というサンスティーンという人が提唱した概念になる。「サイバーカスケード」という語の意味も本書から引けば「サイバースペースにおいて各人が欲望のままに情報を獲得し、議論や対話を行っていった結果、特定の―たいていは極端な―言説パターン、行動パターンに集団として流れていく現象のことを指します」とある。


この「サイバーカスケード」という語を使って著者の「二重のカスケード」という分析がなされる。「特定の問いが構築されることで、AかBかの議論へとカスケードしていくこと。その問いへのカスケード自体が、あらかじめAの勝利という結論へのカスケードを内包していること」と説明される「争点のカスケード」の上で、AかBどちらの立場をとって争うかという「立ち位置のカスケード」があるというのが「二重のカスケード」だという。多くの人は「立ち位置のカスケード」にばかり目がいってしまうが、本当に見出すべきは「争点のカスケード」だというわけだ。


この辺りの分析をしている章やカスケードという語の使い方については「メディア社会備忘録」(http://d.hatena.ne.jp/Seu/20071020#p1)において若干の指摘もなされている。私には是非の判断はまだできないが、印象としてはあまり自分が使うことでその事象をより明快に理解できるという手ごたえまではもたなかった。サイバーカスケードとは、インターネットという既存のメディアにはない圧倒的な様々な一般の人の意見が可視化されるメディアであることによっておこる、極端な意見へなだれこんでいく現象であるととらえたのだが、それは確かにネットならではという感じで面白い。しかし著者の分析における「争点のカスケード」を作るという点では、いまだに既存の電波メディアや紙メディアの力も強く、その大手メディアとの絡み合いや反発でそれらは生み出されていくのだろう。そこで既存のメディアとネットというメディアが現状どのような関係で、この先どんな過程を経て、役割やパワーバランスの変化や逆転の契機があるのかという点が私は大切だと思うので、それらの議論の土台となる既存のメディア(特に電波と紙)に対する基礎的考察が本書ではほとんど展開されていなかった本書を読む限りでは著者の分析の妥当性を判断できなかったからだ。


またプロフィールにある「メディア論、テクスト論を武器に」とあるが、テクスト論的な分析はこの本には見出されなかった。そこはあむばるさんが「メディアやウェブに目を向けるばかりに政治性が捨象されているように思われれて仕方がない。ついでに文学性も失われているように思われ」ると述べられているが(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=594226220&owner_id=166293&comment_count=4)、それについては私は上記のような著者の独自性を出そうとするよりもある需要のあるコマーシャルな啓蒙本を書こういうスタイルを選択したためだと思う。著者の政治性や文学性、あるいは本格的な分析力が試されるのはこの本ではなく、これから書かれるものにかかっているだろう。期待して待ちたいと思う。