レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』杉浦明平訳


岩波文庫で上下巻あり、上が人生論、文学、絵画論、下が科学についてや書簡などをおさめている。


上巻はともかく、下巻の300頁ほどを占める科学についてのところはほとんど読めなかった。頁をめくって見るだけという感じで、もう少し理科を勉強しておけばよかったと後悔している。これは後日再挑戦と思っておこう。


モナリザの作者である画家であり、建築家であり、中世において抜群の近代的な科学認識をもっていた解剖学者・実験者であり、軍事技術や芸術論などにも業績がある万能の天才としてレオナルド・ダ・ヴィンチは知られている。


解説から抜粋して彼の生涯を大まかにフォローしてみる。

レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci は一四五二年イタリア半島の中部トスカナ地方フィレンツェ自由市の郊外アルバノ連山西南腹の一寒村ヴィンチ村に生れた。父は公証人セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ(一四二七年―一五〇四年)、母はカテリーナ。二人の間に生れた「自然児」すなわち私生児であった。

レオナルドはこのミラノ公に仕え、あるときは音楽家(リラ演奏家)として、あるときは都市計画者として、あるときは余興係として、またしばしば軍事技師として水利工事監督として活躍した。一方芸術家としてはミラノ本寺のティブーリオの模型をつくったり、ミラノ城内の装飾に参加したり、一六年かけてミラノ公の先祖フランチェスコスフォルツァ騎馬像(佛軍侵入の際破壊された)の原型を製作した。またミラノの聖フランチェスコ寺院のために「岩窟の聖母」にとりかかり(完成せず)、サンタ・マリア・デルレ・グラーツェ寺院の食堂の壁書として「最後の晩餐」とミラノ公夫妻およびその二児とを描き、さらにイル・モーロの二人の愛妾チェチリア・ガルレラーニとルクレツィア・クリヴェルリの肖像書をも製作した。もっとも後の三つの肖像書は残っていなかったらしい。しかもレオナルドの仕事は数年にわたることが多かったため、訴訟事件をすら惹起したのであった。さらにこのミラノ時代には人体解剖の研究、光と影についての研究等を行い、アルプス地方を歩いて、モンテ・ローザに昇っている。

レオナルドはフェレンツェにもどって、アンヌンツィアータ寺院の委属によって「聖アンナ」の書稿をこしらえる。が芸術よりも科学的研究に没頭していたようである。そして、一五〇二年には教会軍の司令官チェーザレ・ボルジアの軍事土木建築技師としてロマーニャ地方へ従軍したが、翌一五〇三年にはフィレンツェにもどって、パラッツォ・ヴェッキオ内の大会議室の壁書「アンギアリ合戦」を準備しだす一方、この年から「モンナ・リザ」の製作を開始し、四年を費やして完成した。壁書の方は有名な騎馬戦を含む一部のみで、結局放擲されてしまったが、この第二次フィレンツェ時代にレオナルドの科学研究はいよいよ盛で、鳥の飛翔、地質や水の運動、解剖についての手記を残している。が一五〇六年六月、ミラノ総督シャルル・ダンボアーズ(ショーモン)に招聘されてミラノに出発。

フランスではフランソワ一世に仕えて、アンボアーズ郊外のクルー城にあり、祝典の余興を考案したりロモランタン付近の運河工事を計画したりしていたが、一五一九年五月二日、アンボアーズで客死し、同地のサン・フロランタン寺院に葬られた。

15世紀から16世紀にかけてイタリアに生まれフランスで死去するまでに書き残された膨大な手記の抜粋がこの本である。


50年弱前の訳なので、漢字が旧字体なのに閉口するが、その当時にしてかなりくだけた口調の訳語がつかわれているところもある。「『幸福』が来たら、躊らわず前髪をつかめ、うしろは禿げているからね」など手記自体がこのようなウィットに富んだ内容と口調をもつためらしい。


人生論とカテゴライズされている文章では卑近な話題から抽象的な論まで雑多につめこまれている。

男というものは女が自分の欲する色欲に屈しやすいかどうか知りたくてたまらない。それでそうだということがわかり、女が男を欲しがるとすぐさま女に頼んで自分の欲望を実行にうつす。しかも女が白状しないかぎり女の気持ちが分らない。白状したらあわてる。


これはまさに「不快」を伴う「快楽」である。お互に決して離れることがないのだから、双生児として描いてある。二人は同一の土台を持っているのだから、同一の胴体の上にすわっているように描いてある。というのは快楽の土台はこのとおり不快を伴う労苦であり、不快の土台もこのとおり様々な放埓な快楽である。そこでここには右手に竹を握っているところが描かれている。なぜかなら竹は空虚で力がないがそれで刺された傷は毒を帯びるから。〔竹は〕トスカナではベッドの脚に用いられるが、ここではかない夢が織りなされ、ここで一生の大部分が消費され、ここに非常に有益な時間すなわち朝の時間が投げ込まれる―朝は精神爽快で十分休息をとって居り、肉体も新しい労働を再開するのに適している―ことを意味する。なおまた其処では幾多のはかない快楽、自分に不可能なことを妄想する時は精神の快楽、あるいは生命取りになりやすい例の快楽をあじわうときには肉体の快楽、味わわれる。このようなわけでベッドの台としての竹を握っているのである。


点は部分をもたないと言われる、したがってこのために点は分割不可能であるということになる。そして分割不可 能なものは広がりを持たず、ひろがりをもたぬものは無に帰する。したがって点は無であるが、無の上にはどんな科学も成立ちえない。こういう原理をのがれるためにわれわれは主張してもいい、「点とはありうるかぎりのものよりさらに小さいものであり、線はその点の運動によって作られる。しかしてこの線より狭く薄いものは何一つ存 在しえない。線の極限は二個の点である。次に面は線の横ざり運動から生れ、これより薄いものは何一つ存在しえず、そしてその極限は線である。立体は〔面積の〕運動によって作られる。〔そしてその極限は面である。〕」


それぞれ面白いが、面白さの質がずいぶんちがう。不快を伴う快楽など精神分析における享楽の説明のようだし、点の考察から立体にいたるさまは数学的だ。同時に男女と機微というのか卑属といえば卑俗な話もユーモラスに語られている。これらのバラエティに富んだ思考が著者の本領なのだろう。


上巻には「文学」と「絵の本」というカテゴリがあるのだが、この「文学」というのは私が思い描いているようなものとはだいぶ違った。このカテゴリ自体も後世の人がわけたものだろうから、いわゆる「文学」というより教訓を含んだ寓話や説話のようなものだと思う。

あるひとが友人との交際をやめた、相手が友だちのわる口をしばしば言ったからである。絶交してのち、ある日のこと、友人のところへ不幸を弔いにゆく。丁重な弔問のあとで、友人は、どういうわけで、あんなに親しい友情をお忘れになってしまったのか、教えていただきたいと頼んだ。これにたいしてかれは答えた。
 「ぼくは君を愛しているからこれ以上君と交際したくないんだ。君は友人のぼくに他人の悪口をいうが、他の人々がぼくと同じように君からいやな印象をうけてもらいたくない、君は他の人々にも君の友人たるぼくのことを悪くいうだろうからね。従ってぼくたちが今後交際しなければ、ぼくたちは敵になったように見えるだろう。そうすれば、君が例のとおりぼくの悪口をいったところで、おつきあいしているほどにはひどく非難されないですむだろうものね」


つぐみと梟―つぐみは、人間が梟を捕えその足を頑丈な紐でしばってその自由を奪うのを見て、大いによろこんだ。だがやがてその梟が囮となって、そのつぐみの自由だけでなく生命そのものをうばう原因となった。
 これは、自分たちの支配階級が自由をうしなうのを見てよろこんだ町が、やがてそのために救いの道をうしない、敵の権力のうちにつながれて自由はもとよりしばしば生命まで捨てることになるのたとえである。


寓話。歯に咬まれた舌について。

著者の生きた時代では宮廷でのサロンにおいて活発な談論がかわされていたらしいので、その時にこのような話をしていたのかもしれない。


「絵の本」では画家(書家と書かれている)の心得や、他の芸術ジャンルと比べたときに絵の優位性が語られている。


絵と詩との相違―想像と実体との相違は影と影ある物体との関係に等しい、「詩」と「絵」との間にも同様の比例が存する。けだし「詩」は読者の想像のうちに自分の事柄を並べるのにたいして、「絵」はそれを眼の前にリアルに表現するが、その眼は自然さながらの映像を受けとる。「詩」の方はその映像をもたずにものを表現するので、それは「絵」のように視覚を通して印象に達することがない。
 「絵」は言葉あるいは文字のなす以上の真実さと正確さとをもって自然の諸作品を感官に向って表現するが、文字は「絵」のなす以上の真実さをもって言葉を表現する。しかし作者の作品すなわち人間の作品たる言葉を表現する。しかし作者の作品すなわち人間の作品たる言葉を表現する、例えば人間の舌を通る詩その他のごとき学よりも自然の作品を表現する学の方が一層おどろくべきだと言ってよかろう。


書家は孤独でなくてはならぬ―書家は孤独で、自分の眺めるものをすべて熟考し、自己と語ることによって、どんなものを眺めようともそのもっとも卓れた個所を選択し、鏡に似たものとならねばならぬ。鏡は自分の前におかれたものと同じ色彩に変るものだ。このようにしてこそ書家は「自然」に従ったように見えるだろう。


君は、われわれの生活費以上莫大な金をもうけてもその銭は大したものではないということを心得ねばならぬ。つまり銭をふんだんに有っていても、君はそれを使いつくすわけにゆかず、従って君のものではない、使えない財産はすべて一様にわれわれのものであって、君が自分の生活に役に立たないほど儲けてもそれは悉く君の意のままにならぬ他人の掌に握られている〔も同様な〕のである。しかし二つの遠近法の理論によって研究しよく推敲するならば、君は誰よりも偉大な名誉を付与する作品を残すことになるだろう。けだしそれのみがひとり名誉なのであって、銭を有っている人はそうではない。そういう人はしょっちゅう嫉妬羨望の的、泥棒のねらいの的となり、その生命といっしょに富豪の名声も消え去り、財宝の名はのこるが、財をためた人の名はのこらない。人間の技量の名誉はかれらの財宝のそれよりはるかに偉大な光栄である。

解説にもあるように、ここでの絵のジャンルの優位論はやや詭弁的な面もあり、特に写真や映像をもつ今ではやや時代を感じさせる。しかし、この記述に解剖学者・あるいは科学的な目をもった実験者としての著者を想起し、それと同じ目線で画家の仕事を意味づけ創作していたと考えると非常に興味深い。万能の天才の万能たる秘密がそのようなあり方にこそ隠されているように思えるだろう。


科学についての論述は数式やわけのわからない言葉が乱舞しているわけではないが、実験と観察、そこから導き出される仮説がみっちりつめこまれており、少し基礎教養(理科レベル)がないと読むのがつらいという感じだった。

重さと暴力と物質運動とは衝撃と相まって現象世界の四つの力である。人間のありとあらゆる目に見える仕事はその存在と死とをこの四つの力の上にもっている。


力とは何か。力とは精神的な性能、不可視な能力であると定義する。それは偶発的外的な暴力の運動によって産み出され、自然の安静状態から引きずり出された諸物体の中に散布瀰漫する。そしてその物体に不思議な能力をそなえた活動的な力を吹きこむ。


また歌うとき声を変化させ調節し明瞭ならしめる機能がどのように随意筋によって動かされる気管の単純な呼吸作用によるかを記述しかつ図解すること。この場合は、舌はいかなる部分も働かない。


重さや力といった概念を抽象的な思考で定義づけるとともに、随意筋や気管など解剖学的な具体的観察・実験の記録もおおいに出てくる。その記述の仕方も無味感想ではなく、芸術家でもあり、神を信じるものでもあり、それらが矛盾なく統一されている著者ならではの世界観をうかがわせるものになっている。


正直なかなか読むのがしんどかった本だが、基礎教養と歴史的知識をつけ、自分なりに今では相当細分化され思考パターンまでそれぞれ分かれてしまったように見える知のジャンルをどうつなげどう統合していくかという問題にむきあうときに再読してあらためて出会うことができるかもしれないと思った。