マキアヴェッリ『君主論』河島英昭訳


短かった。例によって本文の倍以上の注がついていたような気がするがガン無視した。力量的に無理だ。その特異性によって古典の中でも不気味な輝きを保持している本書は、しかし通読するとおどろくほど腑に落ちるまっとうな、しかも―こういうのは語弊がありそうだが―品のある文章だった。


このルネサンスから近代が完成するまでの15〜19世紀あたりの著作は、歴史的知識のない私にとってはこの著者の人生を知ることでこの時代に対する知識とイメージを摂取したいという意識がはたらくので、やはり解説からマキャヴぇッリの一生について抜粋すす。

ニッコロ・マキアヴェッリは、一四六九年五月三日、イタリアのフィレンツェ市中に生まれた。父親ベルナルドは法律家であり、母親バルトロメーア・デ・ネッリは詩文の才があって、しかも家計の支えに尽す、働き者の女性であった。この両親のあいだに、長男として、ニッコロは誕生したのだが、その前に姉二人(プリマヴェーラマルゲリータ)があって、後には弟トットが一四七五年に生まれてくる。

そして一五二七年六月二三日、息子ピエーロの言葉によれば「貧しさだけを残して」フェレンツェで亡くなったのである。


これしか打ち込んでなかった。補足すればマキアヴェッリはこの後優秀な官僚として頭角をあらわすが、メディチ家がイタリアを支配するようになると、その前の統治者に重用されていたマキアヴェッリは本人の楽観的な展望と裏腹に投獄される。その後自らの名誉回復も願いつつメディチ家に献呈されたのが『君主論』だったりする。

それゆえ、自分の新しい君主政体のなかで、敵を退けて味方を殖やし、武力や謀略によって打ち負かし、民衆から愛されかつ恐れられ、兵士たちに慕われかつ畏怖され、あなたに危害を加える能力と危惧のある者たちを抹殺し、新しい制度によって古い制度を改め、峻厳であると同時に慈悲深く振舞い、寛大でありかつ惜しみなく与え、忠実でない軍は解体させて新たに組織し直し、横行や君主たちとは友好関係を保ちつつ、あなたに進んで利益をもたらすように仕向けるか、あるいは彼らを攻撃するさいには慎重を期すこと。これらの行為がいずれも必要であると判断する者は、この人物の行動以上に、新鮮な実例を見出すことができない。


このような人物がマキアヴェッリの理想とする君主像である。背反するような要素、愛されかつ恐れられ、峻厳であると同時に慈悲深く、抹殺をためらわずまた寛大であり惜しみなく与えていく…君子豹変するといった言葉を思い出すこれらの君主たるべき要素は、マキアヴェッリが本文中で展開する為政者の直面するさまざまな局面に対する賢明な対処のあり方を論じるのを見るとひとつひとつどうも納得がいってしまう。

ここで考慮すべきは、みずから先頭に立って新しい制度を導入すること以上に、実施に困難が伴い、成功が疑わしく、実行に危険が付きまとうものはないということである。なぜならば、新制度の導入者は旧制度の恩恵に浴していたすべての人々を敵にまわさねばならないから、そして新制度によって恩恵を受けるはずのすべての人びとは生温い味方にすぎないから。この生温さが出てくる原因は、ひとつには旧来の法を握っている対立者たちへの恐怖心のためであり、いまひとつには確かな形をとって経験が目のまえに姿を見せないかぎり、新しい事態を真実のものとは信じられない、人間の猜疑心のためである。

およそ名のある人物にあって新たな恩恵がかつて加えられた古傷を忘れさせられると信ずる者は、欺かれる。

そこで注意すべきは、ある政体を奪い取るにあたって、これを占拠する者は、なすべき必要な攻撃のすべてを仔細に検討しておかねばならないし、また毎日、同じことを繰り返さないために、すべてを一挙に実行に移して、その後は繰り返さないことによって人びとを安心させ、かつ恩恵を施しつつ彼らを手懐けるようでなければならない。臆病のためや悪い考えのために、これとは逆の行動をとる者は、いつでも手に剣を握っていなければならないし、また生々しく絶え間ない迫害のために、臣民の側は決して彼に気を許さないので、彼のほうも臣民の上に安心して立っていることができない。このような次第であるから、なるべく少なく味わうことによって、なるべく少なく傷つけるように、加害行為はまとめて一度になされねばならない。けれども恩恵のほうは少しずつ施すことによって、な
るべくゆっくりと味わうようにしなければならない。

そして自分の都市の防衛を充分に強化し、他の政策に関しては、先に述べたごとく、また後に述べるがごとく、臣民に対する措置を講じておくならば、誰でもつねに並大抵のことでは侵略されないでだろう。なぜならば人間は目に見えて困難な企てにはつねに反対するものであり、堅固な守りの都市を擁してしかも民衆から憎まれていないような人物を攻略することなど、容易な業とは写らないから。

なぜならば、あなたに降りかかる害悪の他の諸原因のなかでも、非武装であることはあなたを侮られるから。(中略)なぜならば、武装した者と非武装の者とのあいだには、比較を絶したものがあり、武装した者が非武装の者に喜んで従うとか、非武装の者が武装した家臣たちのあいだで安全でいられるなどというのは、到底、理に叶っていないから。なぜならばまた、一方の心のうちに侮りがあり、他方のうちに疑いがある以上、両者がいっしょうになって軍事行動をうまく進めることなどあり得ないから。


多くの民衆を束ねる立場の君主は、その集団としての人間の一般的な性質をつかんでなければならない。人間はだいたいにおいては、実に意思の弱く、猜疑心がつよく、隙あらば出し抜こうとし、暴力による恐怖がなければすぐに相手を侮りだす。これらの人々をたばね、支配するために過剰な人に対する期待を切り捨て、人間の愚かさに焦点をあわせ、これらを支配する力の行使は厳粛におこなう。しかし同時に安定が長く続くという事実によって民衆は君主を信頼するのだから、そのような不安定な気持ちをもたらす力の講師は必要なときなるべく短く、頻繁に繰り返すことのないようにしなければならない。そのことによって恩恵をなるべくゆっくり施すことによって信頼され、不安分子を力で抹殺し、また支配した君主は侵略されることがない。これらの認識は、私にはどれもまっとうに見えた。私は君主ではないので抹殺などを自分のこととして肯定することは抵抗があるが、マキアヴェッリが人間集団のだらしなさを力で脅しつけ抑止しながら、同時に長くゆっくりとした恩恵によって安定した日々が続くという事実で民衆の支持をつかむことが何よりも大切だといっているのは、国政レベルの現実をはっきりつかんでいるという感じはぬぐえない。

なぜならば、いかに人がいま生きているのかと、いかに人に人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。そこで必要なのは、君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。

右に述べた諸々の資質のなかでも、善なるものばかりを身につけた君主がいれば、それはまさに称賛きわまりない人物であろうと誰もが認めるはずであることを。だが、人間の条件としてはそれは許されるべくもないので、それらを身につけることも完全に守りぬくことも出来るわけがないから、必要なのは、ひたすら思慮ぶかく振舞って、自分から政権を奪い取る恐れのある、そういう悪徳にまつわる悪評からは、逃れるすべを知っていなければならない。また自分からそれを奪い取るほどではない悪徳からも、可能なかぎり、身を守るすべを知らねばならないが、それでも不可能なときには、さりげなく遣り過ごせばよい。またさらに、これらの悪徳なくしては政権を救うことが困難であるような場合には、そういう悪徳にまつわる悪評のなかへ入り込むのを恐れてはならない。なぜならば、すべてを熟慮してみれば、美徳であるかに思われるものでも、その後についてゆくと、おのれの破滅へ到ることがあるのだから。また悪徳であるかに思われるものでも、その後についてゆくと、おのれの安全と繁栄とを生み出すことがあるのだから。

主が信義を守り狡猾に立ちまわらずに言行一致を宗とするならば、いかに賛えられるべきか、それぐらいのことは誰でもわかる。だがしかし、経験によって私たちの世に見てきたのは、偉業を成し遂げた君主が、信義などほとんど考えにも入れないで、人間たちの頭脳を狡猾に欺くすべを知る者たちであったことである。そして結局、彼らが誠意を宗とした者たちに立ち優ったのであった。
あなた方は、したがって、闘うには二種類があることを、知らねばならない。一つは法により、いま一つは力に拠るものである。第一は人間に固有のものであり、第二は野獣のものである。だが、第一のものでは非常にしばしば足りないがために、第二のものにも訴えねばならない。そこで君主たる者には、野獣と人間を巧みに使い分けることが、必要になる。

したがって、君主たる者に必要なのは、先に列挙した資質のすべてを現実に備えていることではなくて、それらを身につけているかのように見せかけることだ。いや、私としては敢えて言っておこう。すなわち、それらを身につけてつねに実践するのは有害だが、身につけているようなふりをするのは有益である、と。たとえば見るからに慈悲ぶかく、信義を守り、人間的で、誠実で、信心ぶかく、しかも実際にそうであることは、有益である。だが、そうでないことが必要になったときには、あなたはその逆になる方法を心得ていて、なおかつそれが実行できるような心構えを、あらかじめ整えておかねばならない。そして誰しも人は次のことを理解しておく必要がある。すなわち、君主たる者は、わけても新しい君主は、政体を保持するために、時に応じて信義に背き、慈悲心に背き、人間性に背き、守るわけにはいかない。またそれゆえに彼は、運命の風向きや事態の変化が命ずるままに、おのれの行動様式を転換させる心構えを持ち、先に私が言ったごとく、可能なかぎり、善から離れることなく、しかも必要とあれば、断固として悪のなかへも入っていくすべを知らねばならない。


これらは痛みはともなうが未だにまったく有効性を失わない現実であり、これらを是認しない者も、これらの現実的な実効性と、理想的な人物をもってなしうるこれらのやり方とは違う為政の方法の困難さを骨身にしみて感じていなければ、まったく何もできないだろう。

ここで重要な一つの問題に、私は触れずにいられない。それは、世の君主たちがよほど思慮ぶかくないかぎり、あるいは賢明な選択をしないかぎり、身を守ることの困難な一つの過誤である。それは、他ならない追従者たちのことであって、世の宮廷は彼らに満ち充ちている。なぜならば人間というものは、わが身のことになればおのれを甘やかし、たやすく騙されてしまうので、この疫病から身を守るのは困難である。そしてこれから身を守ろうとすれば、おのれの身が軽蔑されかねない危険を伴う。なぜならば、あなたに真実を言っても、あなたが機嫌を損ねない君主である、と人びとに知られてしまうこと以外に、追従者から身を守る方法はないのだから。だが、誰もがあなたに真実を言えるときには、あなたを尊敬する者はいなくなる。それゆえ思慮深い君主は、第三の方法を取って、自分の政体のなかから賢者たちを選び出し、選ばれた者たちにだけ、真実を告げる自由の与えればよい。しかも他のことについては告げるのを許さずに、自分が訊ねた事柄にだけ―ただし訊ねる対象は万事にわたらなければならない―彼らの意見を言わせればよい。それから後は、自分独りで、自分なりの方法で、決断を下さなければならない。そしてそういう助言を受けながら、彼らの一人ひとりに対して、自由に真実を話せば話すほど、いっそう彼らの助言が受け容れられることを、彼らにわからせるよう振舞わなければならない。彼ら以外には、誰にも耳を貸さずに、決断したことは推し進めて、あくまでもその決断を貫かねばならない。これに反した行動を取る者は、追従者たちの罠に落ち込むか、さもなければ異なる意見を聞くたびに何度も意見を変えねばならなくなる。そこから生まれてくるのは、自分の評価の下落だけである。


君主たる者は、それゆえ、つねに助言を求めなければならない。が、それは、自分が望むときあって、他人が望むときではない。そればかりか、何事であれ、自分に対して助言をしようなどという気持を、誰にも起こさせてはならない。とくに、こちらから、訊ねないかぎりは。だが、彼のほうは、あくまでも幅広い質問者でなければならない。加えて、自分が訊ねた事柄に関しては、忍耐強く、真実を聞き出さねばならない。そればかりか、誰かが、誰かに対する遠慮から、真実を言おうとしないことに気づいたときには、怒りさえ露わにしなければならない。そして思慮深いという評判が立った君主は、みな、生来の資質のためではなく、身近に置いた良き助言者のおかげである。などと多くの人びとが評価しても、疑いなくそれは誤りである。なぜならば、次に述べることは、過つはずのない、一般原則であるから。すなわち、みずからが賢明でない君主は、良き助言など受け容れられない。


結論を、したがって、出しておくが、運命は時代を変転させるのに、人間たちは自分の態度にこだわり続けるから、双方が合致しているあいだは幸運に恵まれるが、合致しなくなるや、不運になってしまう。私としてはけれどもこう判断しておく。すなわち、慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。なぜならば、運命は女だから、そして彼女を組み伏せようとするならば、彼女を叩いてでも自分のものにする必要があるから。そして周知のごとく、冷静に行動する者たちよりも、むしろこういう者たちよりも、むしろこういう者たちのほうに、彼女は身を任せるから。それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。なぜならば、彼らに慎重さは欠けるが、それだけ乱暴であるから。そして大胆であればあるほど、彼女を支配できるから。


これらは例えば官僚はこちらから聞きたいことがあるときしか呼ばず、こちらの質問にしか答えさせない、という現代のある政治家がいっていたテクニックのおそらく源流が語られている。また結論のやや問題のある比喩も、運命を御しうるという信念がしばしば粗暴な若者のパワーを肯定することを通して自らの清濁あわせのむあり方をしめしている。しかし、マキアヴェッリは後世に悪名しか残さないような君主を、たとえうまくいっていたとしても肯定しない。マキアヴェッリは名誉や後世の模範といった現実的で実効的なものとは少し違った理念などをなお保持していた。人の生命に取替えのきかない大きな価値を見出すことを前提に、やはりマキアヴェッリの君主的なあり方と別のあり方を私は希求したいと思ってしまうが、意外にもとても肌にあった本であった。