トマス・モア『ユートピア』平井正穂訳


不倫が、死刑。それがユートピアらしい。すごい。どこにもないという意味をもつ「ユートピア」という語に架空の理想郷を描いたといわれるこの書は、よくいわれるように確かに共産主義的社会を想像させるし、当時の時代性とも考えあわせると非常に面白い現在でもその知見が参考になりうる思考実験である。しかし通読したときは私はこの本についてあらかじめ抱いていたイメージと違う姿に面食らってしまった。

妻は夫に、子供は親にそれぞれ仕える。簡単にいえば、年少者は年長者に仕えるのである。どの都市もすべて同じような四つの区に分れる。各区の中心にはあらゆる種類の品物を扱う市場が立っている。そこにあるいくつかの建物に、すべての家族の生産品が持込まれる。あらゆる種類の品物が納屋や倉庫などにそれぞれ種類別にしまわれるのである。そして各家族の父親、つまり戸主がやって来て、自分はもちろん、自分の家の者が必要とするものはなんでもそこからいくらでも持っていく。金もいらなければ交換するものもいらない、抵当も担保もいらないのである。なぜなら、すべての物資が豊富にあって、しかも誰も必要以上に貪る心配のない所では、欲しいものを欲しいだけ渡してなんの不都合もないからである。けっしてものに不自由することはないという安心感、この安心感がある時に誰か必要以上に貪る者があろう。今さら言うまでもないが、あらゆる種類の動物が餓鬼のように貪欲になるのは、実に欠乏に対する心配であり、特に人間においては虚栄心である。人間はなくもがなの、玩具のような物を見せびらかして他人をしのげば、それがすばらしい光栄であるかのように思うものなのである。そういう悪徳を知らない国民、それがすなわちユートピア人なのだ。


ところが、である。金や銀でだいたい彼らは何をつくるかといえば、実に便器である。汚い用途にあてる雑多な器具である(これらは共同の会館においても、各個人の家庭においても同じように用いられている)。さらに奴隷を縛るのに用いる足枷・手癖の鎖である。そして最後に、罪を犯したため破廉恥漢とさらに皆に蔑まれている人間が耳につける耳飾りであり、指にはめる指輪であり、首にまく鎖であり、さては頭にまく鉢巻である。かようにしておよそ考えられるあらゆる手段方法を通じて、金銀を汚いもの、恥ずべきものという観念を人々の心に植えつけようとするのである。


彼らは阿保を大切にする。阿保の一人にでも危害を加えることは厳重に禁じられているが、阿保の阿保ぶりを楽しむことは少しも禁じられていない。これも阿保の為を思えばこそだと彼らはいう。世の中には阿保の洒落やしぐさに対して一向に、にこりともしない謹厳居士がいるものであるが、そんな連中には阿保の世話は委せられないということになっている。この種の連中にかかってはさすがの阿保も喜ばせることもできないし(阿保にとってはそのほかに取柄はないのだから)、況んや何らの利益をももたらすものでもないとすると、こういう連中の世話になったところであまり優遇されそうもないというわけである。


かようにユートピア人が、傭兵をいくら破滅におとし入れようが少しも意に介しないというのも、要するにこの極悪非道な連中をその汚い、悪臭ふんぷんたる巣窟とともに、この世界からきれいに除いて大いに人類の為に貢献しようとする信念があるからである。


一日六時間労働で、物資は皆一つのところに置かれ家長が好きなだけもっていっていい。しかし常に物は充分にあるという安心感が必要以上の消費をさせない。金は便器や不名誉な印に使われる。たしかにこの辺りは私が通俗的に抱いていたイメージとも合う。


しかしゆるぎなき年功序列の家長制であり、一夫一婦の婚姻は不貞をきびしく処罰する。また奴隷はいるし、阿保は大事にするが笑っていい(!)、傭兵として雇う凶暴な部族は、劣悪だからいくらでも戦争に駆り出して殺していい、正義だと皆思っているときたもんだ。最初に絶句してしまったのも一理はあるだろう。


この書は本当に一つの国としてユートピアを軍事や犯罪といったきれいごとでない側面からもシュミレートして書かれており、その分リアルで生臭い部分も上のようにきちんと書かれているわけだ。もっともそう思うのは現代だからで、当時の16世紀の世界観では全然前提となる知識や感性がちがっていたのだろう。


訳者は以下のようにいう。

サー・トマス・モアの生涯とその『ユートピア』について考えることはとりもなおさず、第十五世紀の後半から第十六世紀の前半にかけての、たんにイギリスのみでなく、広くヨーロッパの歴史を考えることにほかならない。

 モアの時代は文化史的にいうならば、要するに、文芸復興と宗教改革の二つの思潮が、中世的な思潮と激突した、恐ろしい時代だった、といいきってしまうことも、或いは可能かもしれない。

 トマス・モアの一生はまたとてもドラマティックである。

トマス・モアは一四七八年二月六日にロンドンに生れた(二月六日にするについてはチェイムバーズの説に従う)。

トマス・モアはセント・アントニ学院に暫く通った後に、十二歳の頃、時のキャンタベリ大司教であったジョン・モートンの屋敷に小姓として見習奉公に行くことになった。この人がどんな人であったかはモア自身『ユートピア』の中に記している通りであるが、この屋敷にいる間にモアはさまざまな見聞を得ることができたらしい。シェイクスピアの史劇『リチャード三世』に出てくるイーリの司教ジョン・モートンはじつにこの人に他ならない。

 モアはそののち次第に法律家として力量を認められてきたが、その間、アウグスティヌスの『神の国』について連続講演をやったり、下院議員に選ばれて、国王ヘンリ七世を弾劾したりしたが、彼がこの頃まじめに考えていた問題の一つは俗的な一切の仕事を捨てて宗教人として生活すべきかどうかということであった。いいかえると、結婚して俗人として生活するか、結婚を拒けて司祭として生活するか、このどちらを選ぶえきかということであった。彼はかなり考えたあげく「俗人」としての道を選んだ。一五〇五年、彼はジェイン・コルトと結婚した。

プラトンの『国家』に親しみ、アウグスティヌスの『神の国』を読みふけっている良心的なこの法律家は、現実の世界と現実の彼方にある世界、この二つを眺め、人間に対して時に痛烈な怒りを感じながら、しかしまた人間を愛しながら、自分の小宇宙の中に、一つの国家を想像していたに違いなかった。この想像のうちに浮んでくる国家像は、現実からの投影であるとともに超現実からの投影でもあった。一方では貧乏人の苦しみや支配階級のあくなき搾取や犯罪や非衛生や陰謀に対する、たとえ科学的な分析ではないにしろ、とにかく深い、透徹した把握があった。また他方には、古代の哲学者や神学者の考えた、理想国家への想像的な熱情があった。いわば、下と上から、現実と理想から、それぞれ投じられる影像が一つの焦点を結ぼうとしていたといえよう。ただそこに一つ、動かすことのできない条件があった。それは自分のぞくするカトリック教会の信仰であった。この信仰の問題は非常に微妙な意味をもつものであった。もしこの信仰を強く前面におし出し、護教的な立場からナイーヴに一つの国家像、或いは社会像を構想するとしたら、そこにはカトリック的な「キリスト教社会の理念」が示され、その結果はいろいろな紛糾をもたらすことは当然考えられたであろう。またこの信仰を全然否定し、ただ合理的な精神の上にのみきずかれるものであれば、それは要するに異教的な国家像にすぎず、それが「最善の国家」であるわけにはゆかないのは明らかであった。地球上のどこかにあってしかもどこにもない国家、外面的にはただ理性の上にたつがその内にかくされた信仰、いわば啓示されざる啓示をもった国家、そんなものが恐らくは漠然とモアの心の中に往来していたことが想像されるのである。

さて、モアは外交使節として充分な職責を果して故国に帰って来て以来、国王ヘンリ八世と枢機卿ウルジの信望を一身に集めるにいたった。モアは彼らの懇望により遂に「宮廷に引ずり込まれて」しまった。

ヘンリ自身が「信仰の擁護者」としてローマ教皇に忠節を誓っている間はよかった。しかしその信仰がぐらつきだしてから、モアの立場は微妙なものになってきた。イギリス国王とローマ教皇との間に微妙な緊張が生じたのは、ヘンリ八世の離婚問題に端を発する。王妃キャサリンとの結婚を妥当なものでないとしてこれを否定し、かねて愛情をよせていたアン・ブリンと結婚することをヘンリは望み、この問題に関する助言をモアに求めた。教皇の認めたキャサリンとヘンリとの婚姻をモアは否認することはできなかった。彼は離婚を正当化するいかなる根拠もないことをヘンリを率直につげ、これ以上はこの問題に関して沈黙することを許可されんことを乞い、良心の自由を与えられんことを乞うた。

 やがてヘンリのモアに対する復讐が始まった。宗教界の屈服と共に、議会もまた王冠の前には屈服していた。翌一五三四年、ヘンリは議会をして王位継承令を通過せしめ、この法に対する宣誓をモアに迫った。モアはこの法に記されている、ヘンリとアンとの間に生れた子供が王位をつぐことに反対はしなかったが、ここに付記されている文の中に、キャサリンとの婚姻を無効とし教皇の権威を否定する言葉がある以上、この法をそのまま肯定するわけにはいかなかった。モアはランベスの査問委員会によび出され、ついで遂にロンドン塔に幽閉されることになった、時に四月十七日のことである。
 やがて国王首長令と大逆罪令とが通過し、モアは主としてこの二つの法令によって追求されたが、彼はもはや沈黙するほかなかった。(中略)彼の前に死刑以外に何ものもないことは明らかであった。モアは世界のキリスト教徒を代表して、一王国の法の裁きの前に立っていた。全ヨーロッパ対イギリスの戦いであるとモアは思っていた。
 一五三五年七月六日、十五ヶ月近く幽閉されたいたため見るかげもなくやつれていたモアはついに処刑のために塔からひっぱり出された。(中略)モアはゆっくり断頭台にのぼり、ひざまずいて「ああ神よわがために清き心をつくり、わがうちになおき霊をあらたにおこしたまえ。われを聖前よりすてたもうなかれ」云々という言葉のある「詩篇」五十一篇をショウ(引用者註・漢字出ず。)した。いよいよ最後になった時、モアはその場所にいた人々に向って「どうか私の為に祈って下さい、そして私が聖なるカトリック教会の信仰を持ち、またその信仰のために、ここに死刑を処せられるというこの事実の証人となって下さい」といった。


長い引用だが、栄光をきわめたのち、敬虔な信仰者としての自分が為政者と軋轢をおこし、非転向のまま断頭台へ送られる。この姿に悲劇の理想主義者を見ないではいられまい。通俗的にいえば映画のような人生である。ルネサンス宗教改革、そして権威としてのローマ教皇の力がゆらぎ、王がその権威を無視しはじめた時代、その背景に照らすと『ユートピア』という作品は、著者の人生ともあいまって今でも変わらず大きな問題である理想とその実効性という難問を提示する。
 再び訳者から引く。

われわれは屡「ユートピア的」という言葉を聞くし、また自分でも用いる。そしてその多くの場合、例えば『オックスフォド辞典』が説明しているように、政治などについて、理想的すぎて殆ど実現も出来なければお話にもならない、という意味に用いられるのは、周知の通りであろう。「ユートピア的」とは「空想的」という意味で用いられるのである。しかし「ユートピア的」という言葉が世界の精神の歴史的な展開というコンテキストの上において用いられる時には、皮肉な調子はそこに含まれていない。モアの著『ユートピア』が近代的精神のマニフェストであることが、そこでは殆んど前提条件として了解されていよう。中世的な絶対主義から自らを解放しようとする近代人の、いわば自由の宣言があると考えられている。ユートピア国は人類の目標とすべき自由の天地であり、まさしく理想国家であり、進歩の極限とされている。そこでは、金持による搾取はなく、人々は六時間の労働時間をエンジョイしている。信仰は自由であり、寛容な支配的である。人々は戦争を呪い、平和を祈り求めている。要するに、共産的な社会機構がうるわしく運営されているのだ。およそ、進歩的といわれる近代人が心の中に描く未来の国家像がここにあるといっても誇張ではない。「モアの理想は依然として苦闘している人類の理想である」とカウツキ―が昔いったが、それは今日でもなお妥当な言葉である。この線から偉大な(たとえ空想的であっても)共産主義者トマス・モアの名が強調されてくるのも無理ではない。
しかし、そのような意味ではたして、『ユートピア』はユートピア的であろうか。おそらくこの問題は、究極的にはトマス・アクィナスをいったい中世的な人間とみるか、近代的な人間とみるかによって決定されてこよう。『ユートピア』はモアのその人の人間としてのあり方との連関なしには正しい解釈はえられないからである。私は前にモアが過渡期の人間であるといったが、モアがこの虚構と事実とのからみあった、そしてまた諧謔と怒りのもつれあったロマンスを書くときに、実に自分の立場にコミットしたらよいかを更めて反省したであろう。この理想国家の中に自由も確かにある。けれどもそれは衆人の前で自分の政治的信念をとくことを禁じられているといった自由である。信仰の自由もまた寛容であるが、もし人間の霊魂不滅に対して、懐疑をもつような人間があれば、その人間は法律の保護を奪われるのである。共産制は行われている。しかし、それはただ自由人の間だけであって、ここに使用されている奴隷たちはその恩恵には浴してはいない。ユートピア人は、人間が不幸や快楽を求めるものであることを肯定している。が、宗教的な動機から苦行を行う者があれば、その者はみんなに賞賛される。彼らは人間の理性によってはこれ以上のものが見出せないという確信をもってすべての制度や生活のモラルを律している。ただし、もっと信仰的な考え方が天から啓示されるならば、話は別だ、といっているのである。

 法廷に立つモアの姿は、嵐に抗して立つヒューマニストの姿であったといってもよかろう。またその抗議は死の抗議であったともいえよう。ここにわれわれは、ヒューマニズムの持つ力強さと、その限界を見るような気がする。秩序を信じ、理性と信仰の調和を信じ、国家と宗教の和解を信じていたモアはついに断頭台上の露と消えてしまった。秩序は無秩序に敗れた。しかし、恐らく秩序を愛する者の心にモアは永遠に生きるであろう。秩序をどう解するか、またどういう手段を通じてそれに到達するか、それは各時代、各人の課題であろう。場合によっては、無秩序が秩序の同義語であるかもしれない。人類の平和を欲しない者が一人でもこの世の中にいるとは考えられない。問題はただ方法なのである。
 モアの信仰が正しかったかどうか、そのヒューマニズムがわれわれのヒューマニズムになり得るかどうか、―こう考えてくると、これに対する答えは、各人の立っている立場によって異なってくると思われる。しかし、カトリック教徒も、プロテスタントも、コミュニストも、そしてまたヒューマニストも、およそ人間の幸福を祈求する者にとっては、サー・トマス・モアの名は永久に忘れられることはないであろう。


ヒューマニスト、あるいは理想主義者の力強さと限界、求心力と非実効性が、彼の人生やこの作品の中に否応なく刻印されているようだ。理想主義者はある意味で特別な求心力をもつ。そしてそれの非現実性がより悲惨な結果をまねくこともある。またその人が説いた理想のかたちが後世からみると唖然とするほどグロテスクなこともある。しかし……。そういう思いを、結局は理想主義者である私も軽視せずに考え続けていかねばならないと思った。