人文的な知とその他者−佐藤優『国家の罠』を入口に

レポーター shfboo

0.はじめに−自己紹介と今回のねらい

 文学研究会のみなさま、知ってる人・はじめての人・入部するかどうか様子を見てる方など、今回若干のレクチャーをさせていただきますshfbooと申します。それなりにまっとうにかつ香ばしく(笑)やらせていただくつもりですのでおつきあいねがいます。私はOBで昔こちらでお世話になっていました。読書会などでは課題の本にたいしてかなり思い込みの強い解釈を主張しては、互いにアイデンティティをかけて論争し、恨みをかかえあう荒廃した幕切れや、果ては流血ざt(以下自主規制)。それが今となってはよかったといっていいのか、なくてもよかった気がするというか(笑)、いろいろ思うところはありますが、今回はそのようなことはなく!(笑)それなりにヴィヴィットな話と半ば妄想かもしれないはったりとアジテーションをして盛り上げていこうと思います。

このレクチャーでは、みなさまにいろいろ意見や感想を随時きいていきたいと思います。その時はブレインストーミングと呼ばれるやり方でみなさまの話を聞いていきたいと思います。ブレインストーミングとは一般の議論とはちがい、参加者が自由にアイデアを出し合っていって、それらを互いに否定せずむしろ突飛で新規な発想を歓迎していくことで多角的かつ独創的に問題を検討していくというやり方です。なのでみなさまもできるだけ多様かつ自分の経験などに基づいた偏った意見を飛ばしていってください。また議論好きの人は今回のレギュレーション(規制)を上記のようにしていますので性急に批判や論破などしようとしないように(笑)*(下記注)

 一応テーマは「人文的な知とその他者」と壮大ですが、まずは一冊の本を入口にはじめます。佐藤優の『国家の罠』という本です。新潮文庫で700円位の値段で出ています。余裕のある方はぜひ購入して読んでみてください。もちろん未読でも問題のないようにします。この本の詳しい話はレジュメの1にゆずるとして、まず人文的な教養にもあふれそれを外交官という国の重大な仕事において活用していた人の姿を通してここで考えたい「人文的知」やそれが社会にどう活かされているかについて軽く見ていきます。佐藤優という人のいろいろな本や媒体での発言で目から鱗がおちるようなものもいくつか紹介していきたいと思います。

 つぎにここで私が「人文的知」といっているものについてやや独断すぎるくらい強引にその概念の暗黙のニュアンスのようなものを読み解いていきます。その裏テーマは(これは今回の勉強会をつらぬく真のテーマといってもいいのですが)以下です。

「なぜみなさまは、よりによって文学研究会の勉強会などにきてしまったのか(笑)」
「そういう文学や思想などにひかれる人が共通してもっている資質のようなものはあるのか」
「あるとしたらそれは人文的知にひかれる人の多くも共有している資質なのではないか」

 だいたいこんなことを「崇高な理念(恒久平和?非暴力?他者との対話や寛容にむかう高次の人間性?)をなんらかのかたちでたもつこと」、「自らの内面の見つめていくことで世界の普遍性へと到達するという夢」、「メインストリーム(主流)の風潮や常識になじめずこぼれでる自分を通して、それらのメインストリームの欠陥を発見し、根本的な変化やオルタナティブを創ることができるという観念」などの仮説をみなさまに提示し意見をもらっていくことで、人文的知そして自分自身についていくらか考えていけたらと思っております。これは私の用意した仮説がすべて大はずれで激すべりという可能性もあるんですが(苦笑)、そのときはいさぎよく負けを認め(笑)、独断とはちがう一般に通じる意味での人文的知に関する知識も用意しておきますのでご容赦ください。

 そして最後に人文学的知の輪郭をある程度知ったところで、その人文学的知の他者、といっていいのかわかりませんが、まあ人文学にひかれる人がおうおうに苦手になりがちでまた軽視してしまいがちな分野―しかも今ではそちらの方が勢いがあり人文学を圧倒しているような現状がある−について多少考えていきたいと思います。とりあげるのは情報技術(工学的知)、バイオテクノロジー(特に遺伝についてなど)、物理学、そしてこれらは人文学にもふくまれはするんですが経済学、統計学など。これらの有用性と人文的知にとっての他者性みたいなものについて現在話題になっているトピックや本を通して概観し、これらのものも知りむきあう中で自分なりの知のかたちを考えてもらえたら…と思っております。

 このレクチャーの目的は以上の通りです。なるべく退屈させないようエンターテインモードでやりますので、できればおつきあいねがいます。

* 注 ブレインストーミングについて。Wikipediaより(笑)
・量を重視する
イデア創出の段階では、質よりも量を重視する。一般的な考え方・アイデアはもちろん、一般的でなく新規性のある考え方・アイデアまで、あらゆる提案を歓迎する。
・批評・批判をしない
多くのアイデアが出揃うまでは、各個人のアイデアに対して、批評・批判することは慎む。個々のメリット・デメリットなどの評価は、ブレインストーミングの次の段階で行う。批評・批判については、各自メモをとるなどしておく。
・粗野な考えを歓迎する
誰もが思いつきそうなアイデアよりも、奇抜な考え方や、ユニークで斬新なアイデアを重視する。新規性のある発明は、たいてい最初は笑いものにされる事が多く、そういった提案こそを重視すること。
・アイディアを結合し発展させる
別々のアイデアをくっつけたり、一部を変化させたりすることで、新たなアイデアを生み出していく。この過程こそが、ブレインストーミングの最大のメリットである

1.佐藤優国家の罠』―ある人文的知識人かつインテリジェンス(情報、諜報)の役職にいた人について

佐藤優とは外交官でロシア通として鈴木宗男とタッグを組み、北方領土返還にむけた交渉などで活躍された方です。しかし、鈴木宗男氏が収賄容疑で逮捕された時、連座で佐藤氏も逮捕され、有罪判決を受けています(現在まだ裁判は終了しておらず、外務省も起訴休職中です)。一年以上の獄中生活後、その経験をもとに今回の事件について書いたのがこの『国家の罠』であり、それがベストセラーとなり、また佐藤優の特異な経歴やその教養に読書人はおどろき、一躍佐藤優は時の人となりました。

その特異な経歴とは佐藤優はクリスチャンであり同志社大学の神学部の大学院までいっており、英語、ラテン語ギリシア語、ドイツ語、チェコ語などに堪能で(チェコ語は自分の研究対象がチェコスロバキア神学者だったかららしいですが、他の語は神学研究では必須らしいです)、その後外務省に二級職員として入りロシア担当としてロシア語も習得しつつその神学的教養を武器に他の職員では得られない情報や情報源とのアクセスを次々とものにしていく…、そして逮捕され拘留されたときも数百冊の本を読み、とくにヘーゲル精神現象学』を読み込み感銘をうける…などなど佐藤氏の教養の高さ、また人文的な知の造詣の深さとそれを外交官という国の利害の最前線をになう役職に活かしている姿などが大きなインパクトとなって、出所後二十をこえそうなほどの連載をかかえる論壇の寵児になったというわけです。

さてそのその佐藤優が『国家の罠』で書いたことは、ひとつが「国策捜査」について(この言葉は佐藤氏の本によって市民権を得ました)、また外交官時代に佐藤氏がしていた「インテリジェンス(情報、諜報)」の仕事についてもいくらか書かれています。そこで本のメインテーマである「国策捜査」について、次に佐藤優が読書人に大きな評価を受けた理由である「インテリジェンス」について『国家の罠』とその他の佐藤氏の本などから適宜引きつつざっと見ていきます。

一、国策捜査

 『国家の罠』で書かれている事件をこの本の主旨にあわせて5W1Hで要約すると、こうなるでしょうか。

佐藤優が、2002年から現在にいたるまで、日本において、特捜検察に、鈴木宗男に象徴される「経世会的政治」の終焉を告げる「時代のけじめ」のために、「背任」などの罪をかなり無理なかたちで作り上げられ、起訴、有罪にされようとしている。

以下口頭で説明します。

国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要だというのは西村氏がはじめに使ったフレーズである。私はこのフレ
ーズが気に入った。
「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査
『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪す
るのです」
「見事僕はそれに当たってしまったわけだ」
「そういうこと。運が悪かったとしかいえない」
「しかし、僕が悪運を引き寄せた面もある。今まで、普通に行われてきた、否、それよりも評価、奨励されてきた価値が、
ある時点から逆転するわけか」
「そういうこと。評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下がってくるんだ」
「僕からすると事後法で裁かれている感じがする」
「しかし、法律はもともとある。その適用基準が変わってくるんだ。特に政治家に対する国策捜査は近年驚くほどハード
ルが下がってきているんだ。一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万程度なんか誰も問題にしなかった。しかし、特捜の
僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下がっていくんだ。今や政治家に対しての適用基準の方が一般国民に対して
よりも厳しくなっている。時代の変化としか言えない」
「そうだろうか。あなたたちが(検察)が恣意的に適用基準を下げて事件を作り出しているのではないだろうか」
「そうじゃない。実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準を決めなくてはなら
ない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなくてはならない。
外務省の人たちと話していて感じるのは、外務省の人たちの基準が一般国民から乖離しすぎているということだ。機密費
で競走馬を買ったという事件もそうだし、それを断罪するのが僕たちの仕事なんだ」
「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショーと週刊誌の論調で事件ができていくことになるよ」
「そういうことなのだと思う。それが今の日本の現実なんだよ」
  

「君の言う、『あがり』は全て地獄の双六という表現は、とってもいいし、正しいと思うよ。ただし、いつも言っているこ
とだけど、僕たち(特捜部)は、冤罪はやらないよ。ハードルを下げて、引っかけるんだ。もっとも捕まる方からすると
理不尽だろうと思うだろうけどね」
「なかなか『悪かった』と謝る気持ちにはならないだろうね。強いて言うならば『悪かった、悪かった、運が悪かった』
ということだろうな」
「アハハハ。そうそう運が悪い。ただね、国策捜査になった人に対する礼儀というものがあるんだ」
「どういうこと」
「罪をできるだけ軽くすることだ。形だけ責任をとってもらうんだ」
「よくわからない。どういうこと」
「被告が実刑になるような事件はよい国策捜査じゃないんだよ。うまく執行猶予をつけなくてはならない。国策捜査は、
逮捕が一番大きいニュースで、初公判はそこそこの大きさで扱われるが、判決は小さい扱いで、少し経てばみんな国策捜
査で摘発された人々のことは忘れてしまうというのが、いい形なんだ。国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへんな能力
があるので、今後もそれを社会で生かしてもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが特捜検
事の腕なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追及するのはよくない国策捜査なんだ」
「それにしては、村上正邦(元労働相)と国策捜査では実刑ばかりが続くじゃないか」
中村喜四郎の場合は、過激派みたいにほんとうに黙秘するもんだからこっち(検察)だって『徹底的にやっちまえ』と
いう気持ちになるよ。それ以外については、どうして実刑になったかは、実のところ僕にもよくわからないんだ。むしろ
政治家に対して裁判所の姿勢が厳しくなっていることの方に理由があると思う」
 

 二、インテリジェンス(情報、諜報)

「こうした冷戦構造の崩壊を受けて、外務省内部でも、日米同盟を基調とする中で、三つの異なった潮流が形成されて
くる。そして、この変化は外部からは極めて見えにくい形で進行した。
第一の潮流は、冷戦がアメリカの勝利により終結したことにより、今後長期間にわたってアメリカの一人勝ちの時代
が続くので、日本はこれまで以上にアメリカとの同盟関係を強化しようという考え方である。
具体的には、沖縄の米軍基地移転問題をうまく解決し、日本が集団的自衛権を行使することを明言し、アメリカの軍事
行動に直接参加できる道筋をきちんと組み立てれば、日本の安全と反映は今後長期にわたって保証されるという考え方である。この考え方に立つと日本は中国やロシアと余計な外交ゲームをすべきではないということになる。これを狭義の「新米主義」と名づけておく。
第二の潮流は、「アジア主義」である。冷戦終結後、国際政治において深刻なイデオロギー上の対立がなくなり、アメリ
カを中心とする自由民主主義陣営が勝利したことにより、かえって日米欧各国の国家エゴイズムが剥き出しになる。世界は不安定になるので、日本は歴史的、地理的にアジア国家であることをもう一度見直し、中国と安定した関係を構築することに国家戦略の比重を移し、その上でアジアにおいて安定した地位を得ようとする考え方である。一九七〇年代後半には、中国語を専門とする外交官を中心に外務省内部でこの考え方の核ができあがり、冷戦終結後、影響力を拡大した。
第三の潮流は「地政学論」である。「地政学主義」とせず「地政学論」としたのは、この考え方に立つ人々は、特定のイ
デオロギー(イズム=主義)に立つ外交を否定する傾向が強いからである。その基本的な主張は次のようなものだった。
東西冷戦期には、共産主義に対抗する反共主義で西側陣営が結束することが個別国家の利益に適っていたので、「イデオ
ロギー外交」と「現実主義外交」の間に大きな開きはなかったが、共産主義というイデオロギーがなくなった以上、対抗イデオロギーである反共主義も有効性を喪失したと考える。その場合、日本がアジア・太平洋地域に位置するという地政学的意味が重要となる。つまり、日本、アメリカ、中国、ロシアの四大国によるパワーゲームの時代が始まったのであり、この中で、最も距離のある日本とロシアの関係を近づけることが、日本にとってもロシアにとっても、そして地域全体にとってもプラスになる、という考え方である。
この「地政学論」の担い手となったのは、冷戦時代、「日米軍事同盟を揺るぎなき核として反ソ・反共政策を貫くべき
だ」という「対ソ強硬論」を主張したロシア語を専門とする外交官の一部だった。さらに、彼らは日本にとっての将来的脅威は、政治・経済・軍事面で影響力を急速に拡大しつつある中国で、今の段階で中国を抑え込む「ゲームのルール」を日米露三国で巧みに作っておく必要があると考えたのである。「地政学論者」の数は少なかったが、橋本龍太郎政権以降、小渕恵三森喜朗までの三つの政権において、「地政学論」とそれに基づく日露関係改善が重視されたために、この潮流に属する人々の発言力が強まった。」


小泉政権の誕生により、日本国家は確実に変貌した。私はこれまで、私自身が見聞きしたことを中心にその変貌をたど
ってきた。この章のまとめとして外交政策、外務省を巡る政官関係に絞って、その意義を簡単に整理してみたい。
第一は、外交潮流の変化である。
トリックスター田中真紀子女史が外相をつとめた九ヶ月の間に、冷戦後存在した三つの外交潮流は一つに、すなわち「新米主義」に整理された。
田中女史の、鈴木宗男氏、東郷氏、私に対する敵愾心から、まず「地勢学論」が葬り去られた。それにより「ロシアス
クール」が幹部から排除された。次に田中女子の失脚により、「アジア主義」が後退した。「チャイナスクール」の影響力も限定的になった。
 そして「新米主義」が唯一の路線として残った。九・十一同時多発テロ事件後の国際秩序を「ポスト冷戦後」、つまり冷
戦、冷戦後とも時代を異にする新しい枠組みで捉える傾向があるが、日本は「ポスト冷戦後」の国際政治に限りなく「冷
戦の論理」に近い外交理念で対処することになった。
第二は、ポピュリズム現象によるナショナリズムの昂揚だ。
 田中女史が国民の潜在意識に働きかけ、国民の大多数が「何かに対して怒っている状態」が続くようになった。怒りの
対象は一〇〇パーセント悪く、それを攻撃する世論は一〇〇パーセント正しいというニ項図式が確立した。ある時は怒り
の対象が鈴木宗男氏であり、ある時は「軟弱な」対露外交、対北朝鮮外交である。
 このような状況で、日本人の排外主義的ナショナリズムが急速に強まった。私が見るところ、ナショナリズムには二つ
の特徴がある。第一は、「より過激な主張が正しい」という特徴で、もう一つは「自国・自国民が他国・他民族から受けた
痛みはいつまでも覚えているが、他国・他国民に対して与えた痛みは忘れてしまう」という非対称的な認識構造である。
ナショナリズムが行きすぎると国益を毀損することになる。私には、現在の日本が危険なナショナリズム・スパイラルに
入りつつあるように思える。
 第三に、官僚支配の強化である。外務省を巡る政官関係も根本的に変化した。小泉政権による官邸への権力集中は、国
会の中央官僚に与える影響力を弱め、結果として外務官僚の力が相対的に強くなった。ただし、鈴木宗男氏のような外交
に通暁した政治家と切磋琢磨することがなくなったので、官僚の絶対的力は落ちた。」

「『改訂新版 世界大百科事典』について 佐藤 優
平凡社 2008年 「月刊 百科」No・543より

確か、その二日後に百科事典が届いたと記憶している。立派な本棚がついていた。階段の下にこの本棚を設置した。最初、
無線工学関係の項目ばかりを漁って見ていたが、記述がなかなかわかりやすい。それから、当時、私はハンガリーのペン
フレンドと文通を始めたばかりだったが、ハンガリーの歴史や詩人などについて、この百科事典を見ると詳しく出ている。
私は百科事典の魅力にすっかり取り憑かれてしまい、結局、中学生時代、高校生時代に一回ずつ、『世界大百科事典』全三
五巻を通読した。

高校時代、文芸部にいた友人から、サルトルの小説のどこかで、図書館で百科事典を第一巻から読んでいる「独学者」を
揶揄しているところがあったという話を聞いて、私も「独学者」の類の変人かと一時期思ったこともあるが、それでも百
科事典を読むのは楽しいので、通読を続けた。このときついた知識は、その後、外交官となり、そして刑事事件に巻き込
まれたことを契機に文筆で糊口をしのぐようになってから役に立っているのだ。今でも、当時きちんと読んだ『世界大百
科事典』の記述については、だいたい記憶に残っている。

父が私にこの百科事典を買ってくれた頃は、インターネット時代の到来を誰も予測していなかった。インターネットの「ウ
ィキペディア」で、情報はただで手に入れることができるので、高価で、場所ふさぎの百科事典を買う必要などないとい
う意見もときどき耳にするが、私の見解ではこれは少なくとも三つの理由で間違っている。

第一の理由は、「ウィキペディア」などの誰もが書き込むことができるインターネット百科事典は、編集権が不在であるこ
とだ。『世界大百科事典』の場合、老舗出版社である平凡社が社運をかけて、優れた編集チームを作って、当該分野の第一
人者に執筆を依頼している。もし、間違えた記述や、不適切な解説があった場合、責任を負う者や法人がある表現物とそ
うでない表現物は、信憑性が根本的に異なる。

第二の理由は、人間は基本的にケチな動物なので、自分でカネを出した書物に書かれている内容は、タダの情報よりも身
につくからだ。私のところにも多数の献本が来るが、ほんとうに読みたいと思う本については、献本は友人に寄贈し、別
途、近所の本屋で同じ本を買う。その方が内容が記憶によく定着するのである。

第三の理由は、より哲学的なものだ。インターネットの情報は、書き込みによって肥大していく。常に更新されていくの
は、最新情報を入手するという観点では確かに便利である。しかし、それでは、「百科事典(エンチクロペディー)」が本
来果たそうとした機能が果たせないのである。

百科事典の目的は、単なる物知り辞書ではない。歴史をある時点で切断し、その時点での体系知の構造を提示するのが本
来の目的なのだ。要するに、百科事典に収録されている内容は、その時点での、当該言語を使う文化圏での、独自の体系
知を提示することである。一八世紀のディドロダランベールらの『百科全書』、一九世紀にヘーゲルが心血を注いで作っ
た『エンチクロペディー』もその時代の当該文化圏における体系知を提示するということで、まさに百科事典なのである。

ロシアの例を見てみよう。二〇世紀初頭に『エフロン・ブロックハウス』という本格的な百科事典が完結したが、これは
帝政ロシアの体系知なので、ソビエト政権は再版を許さずにソビエト大百科事典第一版(一九二六〜四七年)を作った。
この百科事典ではスターリンの意向に沿わない部分があるので、第二版(一九五〇〜六〇年)が刊行された。この百科事
典の内容にブレジネフ政権の意向に合致しない部分があるため、更に三版(一九六九〜八一年)が刊行された。ソ連崩壊
後のロシアになってから国家プロジェクトとして刊行された『ロシア大百科事典』(二〇〇四〜〇六年)は、現時点におけ
るロシアの体系知を示している。本来、百科事典編纂作業は国家プロジェクトとして行うべきであるが、平凡社の力量に
日本国家が甘えているということなのであろう。実際、『世界大百科事典』の内容は、ロシアが国家プロジェクトで作成し
た百科事典に匹敵する。

『改訂新版 世界大百科事典』(二〇〇七年)を見れば、現段階における日本の体系知がどのような状況にあるかがよくわ
かる。例えば、日本では、インテリジェンス体制を整備する必要性が述べられているが、その基礎となる教養としてどの
レベルが求められるかについての見解の一致がない。私は『世界大百科事典』に収録されている情報をインテリジェンス
の基礎教養とすれば、CIA(米中央情報局)、SIS(英秘密情報部、いわゆるMI6)、モサドイスラエル諜報特務局)、SVR
(露対外諜報庁)に匹敵するインテリジェンス機関の創設が可能と思う。裏返して言うならば、この百科事典に出ていな
い情報は、知らなくてもインテリジェンスのプロとして恥ずかしくないということである。

旧版と較べ、改訂新版の内容が向上していることも間違いない。ヘーゲルが『法の哲学』で知恵のシンボルであるミネル
バのふくろうは「夕闇を待って飛び立つ」と言ったが、百科事典の記述は、基本的に定説、通説を中心とするので保守的
だ。編集者がよほどしっかりした問題意識をもっていないと、時代遅れの記述ばかりが並んでしまう。この点『改訂新版 世
界大百科事典』編集部は細心の注意を払っている。例えば、冥王星に関する記述を見てみよう。重要な付記がなされてい
る。

〈二〇〇六年八月、国際天文学連合IAU)は総会で惑星の新しい定義案を採択し、これによって冥王星は惑星の地位を
失うこととなった。/編集部〉

これで、天文関係のニュースに深い関心をもっていない人でも、冥王星がもはや太陽系の惑星には含まれていないという
のが、専門家の「常識」であることを知ることができる。

また、アイヌに関する記述が全面的に改訂されている。先住民族の地位が国際的に強化されていることを踏まえ、知里
志保氏の「民族としてのアイヌはすでに滅びたといってよく、厳密にいうならば、彼らは、もはやアイヌではなく、せい
ぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである」という記述を抜本的に改めている。児島恭子氏執筆のアイヌに関する冒
頭は次のようになっている。

〈日本の先住民族アイヌとは、アイヌ語で神に対する人間・男を意味し、男性への敬称にもなる言葉である。一六世紀
末に来日したポルトガル人宣教師の記録をはじめ、その後の日本人による文献にも、自らをアイノと呼び、居住地をアイ
ノモショリ(アイヌモシリ)といっていたことが書かれているが、民族名称となったといえるのは近代以降のことである。〉

日本政府は未だにアイヌ先住民族と認めていないが、『改訂新版 世界大百科事典』に、現下の学術の進捗と、先住民族
に関する国際社会の標準的認識が記されたことによって、この記述が常識として定着していくことになろう。日本政府が
正しい方向に政策を変更するために重要な役割を果たすと思う。

繰り返すが、教養をつける上で百科事典を読むことには大きな効果がある。関心をもつ分野の項目についてコピーをとっ
て、通勤、通学の途中で読むことを一年続ければ、飛躍的に知識の量が増える。それから、百科事典の項目は明晰に書か
れているので、和文外国語訳の教材としても適当だ。任意の項目を日本語から英語、ドイツ語、ロシア語に訳す練習をす
ると語学力が飛躍的に向上する。

ところで、私が中学一年生のときに父が買ってくれた『世界大百科事典』は現在ブラジルにある。二〇〇〇年一一月に私
の父は他界した。ブラジルに嫁いでいる私の妹と遺品の整理をしていたが、妹が「団地で生活していた頃の日本の生活を
思い出すためにこの百科事典をもっていきたい」と言ったからだ。父と母、私と妹、そして、現在は二重国籍だが、将来
はブラジル人になる妹の子供たちへとこの百科事典は三代にわたって読み継がれていくのであろう。

(さとう まさる・起訴休職外務事務官、作家)」

2.人文的知の暗黙の前提−人文的知にひかれる人の資質とは?

以下の引用を元に口頭で説明します)。

人文学とは wikipediaより抜粋(苦笑)
「人文科学(じんぶんかがく)あるいは人文学(じんぶんがく)は学問の分類の一つ。

人文学は、広義には自然学が学問的対象とする自然 (nature) に対して、人間・人為の所産 (arts) を研究対象とする学問であり、またそれを可能にする人間本性(human nature)を研究する学問である。これは学問を自然科学と人文科学に二分する分類法で、この場合、社会科学は人文科学に含まれる。一方、社会を人間と対比された形で一個の研究対象と見るとき、学問は自然科学・社会科学・人文科学の三分される。こちらの方が、今日では一般的である。

もともとhumanitiesの訳語でありscienceという言葉は含まない。また人文科学の分野の多くが実験による実証ができないために、「科学」の名称を与えることに批判的な論者もいる。そういった論者は人文学という名称のほうを好む。人文科学における、研究方法の一つの主要な柱は文献学的方法であり、解釈の論理的整合性だけが研究者の主張に妥当性をあたえる。ただし、分野によっては実験や観察、統計もまた人文科学の方法として使用される。
人文科学には一般に以下の学問分野が含まれる。

哲学 芸術学 美学 心理学 教育学 考古学 民俗学 文化人類学(社会科学に含まれることも多い)文学 言語学 宗教学 神学 歴史学(経済史、法制史、政治史等は社会科学に含まれる)地理学(自然地理学は自然科学に、また経済地理学は社会科学に含めることもある) 仏教学」

1「崇高な理念をなんらかのかたちでたもつこと」
2「自らの内面の見つめていくことで世界の普遍性へと到達するという夢」
3「メインストリーム(主流)の風潮や常識になじめずこぼれでる自分を通して、それらのメインストリームの欠陥を発見し、根本的な変化やオルタナティブを創ることができるという観念」
4「超越性(神?)をなんらかのかたちで体現している人、事を見いだすこと」
5「専門的な知識や技術なしで全てを見渡し見通すメタの地点に立てるという欲望」
6「専門的な知識や技術のない一般の人々に共有され世の中をいい方に変えていけるという欲望(その上で大衆を率いるカリスマ的リーダーになる欲望?)」
7「ラクして一番おいしいところをとりたい(笑)」
8「単純なカテゴリーや一般化によって割り切れない自分や他者の固有性をもつ問題にふれ、それをつかみ考えたい」

小林秀雄 「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であつて二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」

福田恒存 「一匹と九十九匹と」

柄谷行人 「特殊性(個)―一般性(類)、単独性―普遍性」

3.人文的知の他者

以下の引用をもとに口頭説明します。

一、 情報技術(工学的知)
 
東浩紀東浩紀コレクションD』より抜粋引用

「ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。それなのに、物語の衝突ばかりが「政治」だと思われるのはなぜなのか。

その理由はおそらくこうだ。第一に、カール・シュミットの言うとおり、政治とは長いあいだ「友と敵を峻別する論理」だと考えられてきた。第二に、そのうえに、前世紀後半の左翼系知識人たちが、政治イコール開かれた公共的議論イコール他者の尊重、みたいなイデオロギーを加えた。アーレントにしろハーバーマスにしろ、とにかく左翼は「他者と話し合え、他者を認めろ、他者を尊重しろ」の大合唱だ。つまり、まずなにかイデオロギーがあり、それが他者とは共有不可能なんだけど、でも話し合っていろいろ同意していく、20世紀は「政治」をそういうものだとして規定していったのだ。

友と敵を作って、そのうえで他者を尊重したりなんだりする。それはとても「人間的」であり、高級な話ではある。実際、それはある範囲ではますますやるべきだ。たとえばブログとか。ぼくはそう思っている。この点を誤解してほしくない。

しかし、政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。アーレントの言葉で言えば、政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とすこともできるはずだ。つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に(なお、「よりよい」という価値設定にこそが問題で、その部分にこそ実際は功利主義イデオロギーが入りこんでいるだからだめだ、的な反論が容易に思いつくが、それについてはここで再反論するのはやめておく)。

ここで「資源」というのは、むろん経済的なことだけではない。たとえば、ぼくは、Googleの出現はとても「政治的」なことだと考える。なぜなら、それはぼくたちの世界の知的資源の配分を変えたからだ。あるいは、9.11以降のテロの問題も「政治的」だと考える。しかしその理由は、そこで資本主義とイスラムが戦っているとか、アメリカの地政学的野望がどうとか、そういうことではない。世界のセキュリティ化は、リスクという資源の配分を大きく変えたからだ。格差問題も環境問題も同じだ。要はぼくたちは、「政治」としては資源配分のより巧妙な方法だけを考えていればいいのだ。」

池田信夫『過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか?』より抜粋引用

「このような集積度の向上について、ゴードン・ムーア(当時はフェアチャイルド・セミコンダクター社に所属)は1965年、『エレクトロニクス・マガジン』の記事で次のような経験則をのべた。

  最小コストの半導体部品の複雑性は、おおむね毎年2倍の比率で増加してきた。まちがいなく、短期的にはこの比率は、増えるとはいわないまでも持続すると予想される。長期的には、それが少なくとも10年間ほぼ一定に保たれないと信じる理由は、増加率はやや不確かである。

この予言は10年後に再検討され、当時のデータをもとにして、『半導体の集積度は、18ヶ月で2倍になる』と修正された。これが「ムーアの法則」である。

半導体のコストを計測した実証研究によれば、1960年ごろから20世紀までの40年間で、計算量あたりのコストはほぼ1億分の1、すなわち18ヶ月で半分というムーアの法則どおりにコストが低下している。

 このような法則が実現した最大の要因は、半導体に最適の素材がシリコンだったという偶然である。シリコンは、岩石や土の主要な成分であり、酸素に次いで地球上で2番目に豊富に存在する元素である。その原価は(精製コストを除けば)ゼロに近いので、素材の稀少性に制約されない技術革新が可能になったのである。これは幸運な偶然であり、もしもガリウム砒素のような稀少金属によってしか半導体が実現できなかったとすれば、今日の情報産業はなかっただろう。

 2007年9月、インテルの開発社会議にゴードン・ムーアが現れ、満場の拍手を浴びた。78歳になった彼は、創業のころを回想して、「当時は、トランジスタの価格は1個68セントまでしか下がらないといわれていたものだ。しかし今、それは1個1000億分の1ドルで買える」と、この半世紀の激しい技術革新を表現した。彼の提唱した有名な法則がいつまで続くかについては、こう語った。

  あの法則は、あと10年か15年で根本的な障害に直面するだろう。インテルが今年末、出荷する最新チップの線幅は45ナノメートル(ナノは10億分の1)、その線と線の間は分子5個分しかない。これを分子の大きさにすることはできない。これは絶対的な限界だ。

 ゴードン・ムーアの予言は、多くの専門家の評価とおおむね一致している。ただ、あと10年ムーアの法則が続くだけでも、半導体のコストは1/100になる。半導体の価格は数円になってあらゆる情報機器に埋め込まれ、コンピュータは数百円になってボールペンなどと同じ消耗品になるだろう。
 この法則は、これまでに見たように、私たちの生活をもっと深いところから買え、グローバルな経済も変えるだろう。IT企業の技術革新は激しく、方向も定まらないが、ムーアの法則だけは向こう10年は一定だとすれば、未来をある程度、予測することができる。」

二、 生物学(バイオテクノロジー、遺伝)

山形浩生のホームページより抜粋引用

「ジョン・エンタイン『黒人アスリートはなぜ強いのか?』(創元社
 本書はそのタブーに正面切って取り組んだ勇気ある力作だ。そもそも黒人のほうがスポーツ向きというのは事実か? 事実だ、と著者は述べる。いくつかの運動能力に優れた選手の出身をたどると、短距離は西アフリカ、長距離は東アフリカと北アフリカという具合に、きわめて狭い地域にその血筋をたどれるのだ。そして遺伝進化論的に見ても、この議論の妥当性が高いことが示される。

 著者の主張は強力で納得のいくものだ。だが本書を読んだ人はだれもが思うだろう。スポーツ能力に生得的な差があるなら、知的能力には? また人種で差があるなら、性差は? こうした分野ではタブーは健在だ。が、ヒトゲノムの解析が進んで遺伝についての理解が進むにつれて、そのタブーと科学との乖離は大きな問題となる。生得的な能力差を認めた上で、社会的平等を実現するにはどうすればよいのか? これまで人々が見ることすら避けてきたこの難問を、本書は否応なくぼくたちにつきつけてくれる」

稲葉振一郎『経済学という教養』より抜粋引用

「また「合理性・利己性」の概念自体に対しても哲学的レベルでの反省が進んだ。ことに、かつては生物学の理論装置でもあったダーウィン的進化論のモデルが大胆に普遍化され、心理学や計算機科学までも含みこんだ、システムの一般理論のパラダイムとでも呼ぶべきものになってきたことは大きい(これについては、何と言ってもリチャード・ドーキンス利己的な遺伝子紀伊国屋書店、またダニエル・デネットダーウィンの危険な思想』青土社などを参照のこと)。
ダーウィン革命」の要点は以下のとおりであるーダーウィン以前には、複雑なもの、秩序だったものは意図的なデザインなしには作られえない、と考えれてきた(それゆえに「デザイナーの見当たらないデザイン」である生物進化とか市場経済とかは謎だった)のに対し、ダーウィンの「自然選択」のアイデアによって、「意図せざるデザイン」が可能である。というより自然界においては、そちらのほうが普通であるらしい、ということがわかってきた。それどころか、意図的な主体である人間の意図的行為、意図的デザインというもの自体、こうした「意図せざるデザイン」の積み重ねの中から発生してきたことになる。
つまり「意図的なデザインなしに複雑な秩序ができるのが信じがたくすごい」のではなく、「膨大な時間をかけての試行錯誤としての自然淘汰を抜きにして、人間による理性的・意図的なデザインによって秩序が作ってしまえるということが信じがたくすごい」のである。われわれは、人間的な理性というものの宇宙的な意味について、長らく誤解していたのだ。

もう一つ指摘しておくと、これは経済学よりむしろ心理学、生物学が震源地となっているのだが、二〇世紀の人文社会科学を支配した「文化相対主義」には、このところ強烈な逆風が吹いている。すでに見たように「文化相対主義」は人間性について、その多くは社会的、文化的に形成されたものであり、生物学的な要因は弱い―とくに人間の心的な性質については、脳の中で精神作用をつかさどるようなところは可塑的で、生まれたときは「白紙」のようなものであり、その白紙への書き込みは文化、社会主体でなされるもの、と考えてきた。だからたとえば「ある部族の言語には時間にまつわる語彙がなく、それゆえ彼らは時間の観念や感覚を持たない」とか「ある部族の言語には色の名前が四つしかなく、それゆえ彼らは四種類の色しか見分けられない」といった神話が、まことしやかに流通してきた。
しかしこのような神話は、近年次々に打ち壊されてきている。人間の脳は決して「白紙」ではなく、人間の持つ性質・能力のうち意外に多くの部分は、あらかじめ遺伝的にプログラムされており、その範囲内での「文化的相対性・多様性」であると言える。何より、人間の文化の多様性の核と見なされてきた言語についての近年の研究は、一見でたらめに多様に見える言語は、ある一定の法則に従っているらしいこと、また人間の脳には言語活動に特化した特定の部位がある、つまり言語能力はかなりの程度遺伝的で先天的なものであること、などがわかってきている(この辺についてはたとえば、ドナルド・ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』新曜社、スティーヴン・ピンカー『心の仕組み』NHKブックス酒井邦嘉『言語の脳科学中公新書などを参照)。」

三、 物理学

稲葉振一郎『経済学という教養』より抜粋引用

「こういうポストモダンの科学談義を、うんと矮小に劇画化するとこんな感じだ。まず「今日の自然科学は世界を支配する知的権力であってけしからん」となる。で「けしからん権力であるからには何かズルをしてるんじゃないか?」と疑う。で、疑いの果てに「そうだズルをしてる!自然科学は世界についての真実を人々に教えてくれてるんじゃなくて、逆に『これが真実だ』と人々に思いこませることによって世界を支配してるんだ!」というトンデモな結論に行き着く。

もっと踏み込んで考えてみると、科学とは、そこにある自然をただぼーっと眺めてありのままに描く、なんてものじゃなく、あれこれ人間の側でアイデアをひねくり回して考えて、そのアイデアの妥当性を、自然に積極的に働きかけながら試していく、という作業である。つまり人間の側で何をどこまで思いつけるか、が勝負だ。ところが人間てのは所詮は社会的な存在だから、自分の生きている社会の限界の中でしかものを考えられない。そういう意味でも、人間の営みとしての科学は、社会的に制約されてものなのであるーとなる。いわゆる「パラダイム」論だ。

科学の被社会制約性について極端な例を挙げれば、古代ギリシアやインド、あるいは中世イスラムでは数学がかなり発達したが、微積分の概念には到達できなかった。これは別に、この時代の人々が愚かだったからではない。必要を感じなかったからだ。微積分の開発が近世ヨーロッパで行われたのは、弾道計算などの世俗的、実用的なニーズとの関連が大きい―といった感じだ。

よく考えてみれば、近代以降の社会における自然科学の権威というのは、何より第一にその「現世利益」から、つまり研究成果の産業技術的な応用のありがたみから来ている。「鰯の頭も信心」どころか、信じない者に対しても確実に効くその現世的な力こそが、近代自然科学の権威の核心である。役に立つからこそ、科学は権力となったのだ。つまり、役に立つからこそ、権力としての科学には、わざわざ批判の対象にするだけの対象とするだけの価値がある。
しかし一方、このように否応なく「効く」、役に立つからには、自然科学は少なくともまるっきりのでたらめ、欺瞞であるなどということは、ありそうにない。つまり、所詮人間のやることだからいろいろ問題含みであり、限界も抱えているが、しかしそれなりに着実に成果を積み重ねているし、今後も積み重ねていくであろう。だから批判のほうも、全面否定にはなりえないはずなのだ。
だから要するに、繰り返しになるが、このポストモダン知識人の反科学主義は半ば以上せこいコンプレックスの発露に
すぎない。ここで自然科学は批判の対象であると同時に、やっかみを込めた憧憬の対象でもある。だからこそ彼らは、バカにしているはずの自然科学の概念―というより言葉を、カッコよさげにもてあそんでしまうわけである」

池田信夫ブログより抜粋引用

「宇宙のランドスケープ  レオナルド・サスキンド 日経BP
先週Smolinの本を読んで、宇宙論に興味をもったので調べてみたら、ちょうど「主流派」のリーダーの訳本が今週、発売された。もちろん結論はSmolinとは正反対で、物理学の理論としてどっちが正しいのかは私にはわからないが、話としてはこっちのほうがはるかに奇想天外でおもしろい。

ポイントは、Smolinの批判する人間原理(anthropic principle)を「物理学のパラダイム転換」と開き直って宇宙論の中心にすえたことだ。ひも理論の中身はわからなくても、人間原理はだれでもわかる。要は、この宇宙が今のような素粒子でできているのは、そうでなければ宇宙を観察する人間が存在しえないからだ。これは絶対に正しい。なぜなら同語反復だからである。

もちろん物理学の人間原理は、もっと洗練されている。たとえば宇宙定数(λ)とよばれる真空エネルギーの密度(多くの素粒子のエネルギーの和)は10-120だが、互いに無関係な素粒子の正負のエネルギーが偶然に相殺してちょうど0に近い値になることは考えられない。そこには何らかの理論的な理由があるはずだとだれもが考えたが、説明がつかない。そこで最後に出た結論は、これは偶然だが、人間にとっては必然だということだった。宇宙定数(物体間の斥力)がこれより少しでも大きいと、宇宙が急速に発散し、銀河も生命も存在しえないからだ。
しかし、ひとつしかない宇宙でこのような幸運がそろう確率は0に近い。問題は、そういうありえない偶然が実現したことをどう説明するかである。ここで著者は、ひも理論の種類があまりにも多く「破綻した」といわれている状況を逆用し、むしろ莫大な数の宇宙があるからこそわれわれの宇宙もあるのだ、と主張する。私が宝くじに当たる確率は0に近いが、だれかが当たる確率は1である。ひも理論の予言するように10500種類の宇宙が存在すれば、そのひとつの宇宙定数が偶然λになる確率は高くなる(*)。

問題は、宝くじが本当に発行されたのかということだ。今のところ、他の宇宙が存在するという根拠は観測では示せないが、インフレーション宇宙論によれば、インフレーションの繰り返しによって莫大な数の「ポケット宇宙」が生み出されているはずだ。実験は不可能だが、将来は宇宙の観測によって人間原理が検証されるかもしれない。ひも理論は完成には程遠いが、今のところ宇宙を説明する理論としてこれに代わるものはない。

とはいえ、この説明は憶測と状況証拠ばかりで、実証科学の理論としては心細く、まだ多くの物理学者が納得しているわけではない。ひも理論でノーベル賞を受賞した物理学者はいない(著者はその最有力候補)が、Ed Wittenは皮肉なことにフィールズ賞を受賞した。人間原理が反証不可能だというSmolinなどの批判に対して著者は、科学理論を選択するのは哲学者のこしらえた基準ではなく科学者集団の合意だと反論する。

話はほとんどSFのように荒っぽく、素人でも容易に突っ込みを入れられそうなところがおもしろい。問題が実証でも反証でもなく理論を信じるかどうかに帰着するなら、人間原理も「慈悲深い神が現在の宇宙を選んだ」と主張するインテリジェント・デザインも同列ということにならないか――という問いには、著者はその論理的な可能性を否定していない。物理学が天地創造説よりもすぐれているのは、(神という)仮説がひとつ少ないだけなのかもしれない。

(*)しかしSmolinも指摘するように、この逆は成り立たないので、人間原理は多宇宙の存在する根拠にはならない。宝くじに当たった人にとっては、発行枚数が1億枚でも1枚でも、自分が当たったという事象の確率は1だから、ひとつのサンプルから母集団の数を推定することはできないのである」

四、 経済学

稲葉振一郎『経済学という教養』より抜粋引用

「さて、以上のお話は自然科学を念頭においてのものだったが、じつは同じようなことが経済学についてもある程度いえる。人文社会科学の中でも経済学、ことに現在主流の「新古典派経済学」は、その理論モデルの構築においては、一部の自然科学をしのぐほど数学的に洗練されている。また実証においても、いわゆる計量経済学の手法による大量データの統計的分析はかなり高度なレベルに達している。つまり総じていえば経済学は、人文社会科学の中では例外的なまでに、自然科学と同様の「科学的」な体裁を研究スタイルにおいても、また学界の社会的編成においても整えてきている(この点で比肩しうるのは心理学くらいだ。脳神経科学や計算幾何学との連携を強めてきた近年、心理学は事実上「自然科学」化しつつある)。

だが、そのような没交渉が長く続く間に、新古典派経済学も現実との取っ組み合いを経て着実に進歩してきた。そしていまや、逆襲が開始されているのである。たとえば、かつて新古典派経済学への人文学からの(そして常識的素人さんからの!)お決まりの批判は「合理的・利己的主体モデルは、それほど賢くもなければ利己的でもない現実の人間のモデルとしては非現実的すぎる」とか、「社会的相互作用の数学モデル、現実の制度や組織の複雑性を記述できない」といったものであった。
しかしながら、後に本書でも適宜紹介するように、現代の経済学は、右のような批判に応えるべく「ほどほどに合理的で、ある程度利他的な主体のモデル」「制度や組織、慣習の数学的モデル」を開発してきた。これによってたとえば、伝統的な経済学では「経済的に非合理で理解不能」とされてきたさまざまな経済現象―とくに、市場での開放的な取引があえて回避され、共同体内や組織内での閉鎖的取引が続いてしまうことーの経済的合理性が解明されてきたのである。」

五、 統計学
 
飯田泰之『考える技術としての統計学 生活・ビジネス・投資に生かす』より抜粋引用

「先に結論から書いてしまいましょう。統計学は論理的に妥当な思考法とは何かという命題に一つの解答を提示しているという意味で、哲学的にもっとも重要な方法論です。そして、適切な統計知識にもとづいてデータを観察することで、思い込みから「一歩引いた」論理的な思考ができるようになります。これは、哲学的関心以上に生活やビジネスでの意思決定にとり、大きな力になるでしょう。私たちの主観・思い込みは柔軟な思考の大敵です。自分の殻を外から破るために統計の力を借りましょう。

統計的思考の第一歩は収拾したデータの特性を観察し、まとめることで、物事の一般的な傾向を正しく把握することです。このようなデータ利用の手法は記述統計と呼ばれます。記述統計の歴史は古く、人類が文字を発明した頃にはすでに記述統計の思考法は存在していたと考えられます。この記述統計の考え方を生かせば、一般的な傾向をふまえた合理的な行動や、反対にそれを逆手にとって一歩先んじる行動をとることができるかもしれません。
 しかし他方で、データを用いて考えるとき、私たちの観察するデータは、無限にある現実の、「ほんの一部でしかない」という問題を避けて通ることはできません。この根本的問題に対して解決を与えたのが現代までつづく統計学−推測統計です。
 本来ならば「ほんの一部」のデータから全体の話をすることはできません。そこで、統計学者たちは「データによって絶対的な真実を発見する」ことをあきらめました。それにかわって、「データからわかること」と「真実の姿」がどれくらいの確率で適合するか、明らかにしようと考えたのです。たとえば、世論調査に見られるように、「2000人の調査をすれば、95%の確率で日本人全体の姿がわかる」といえれば、「ほぼ」世の中の真実の姿を捉えたといってよいのではないでしょうか。

 開き直った末に「こうなったら文系のセンスで統計を説明しよう」と思いいたりました。その意味で本書は、「文系の文系による文系のための統計入門」です。よく考えると、私自身、大学受験時の得意科目は現代文と日本史……典型的な文系でした。理系出身者がもつ緻密な論理性に対し、文系の持ち味は大づかみな把握力ではないでしょうか。そこで、個々の技法の論理的な基礎づけよりも、データを使った思考の使用法とその意義を重視しながら解説を進めることになったのです。」

4.結論−必読書150と義務教育に帰れ?

以下の引用をもとに口頭説明します。

稲葉振一郎『経済学という教養』

「しかしどうすれば(経済学に限らず)そういう「教養」が身につくのだろうか?それはただ単に勉強して知識を詰め込めばいいってことではないだろう。しつこいようだが、人間の能力には限りがある。すべてを知ることが「教養」ではない。そうではなく、それ以前の「生活態度」のレベルで重要なことがある。それは「専門知識」のありがたみを骨身にしみて知っておくこと、つまり自分の現場で自分なりの「専門知識」をきちんと身に付けておくことによって、他人の「専門知識」に対する尊敬の念を持てるようになること、であろう。
言い方をかえると「知識の経済学」というものが、単に比喩としてではなく大真面目に考えられる。そしてぼくが考えるそこでの基本原理は、やはり「分業」、つまり知的分業だ(この辺はじつは現代哲学、認識論の非常にホットなテーマである。森脇康友編『知識という環境』名古屋大学出版会、戸田山和久『知識の哲学』産業図書、が参考になる)。ではその観点からすれば「教養」とは何か?それは第一に「知的分業に参加できるためにみんなが最低知っておくべきこと」であるだろうが、それ以上に重要な第二の要素は「知的分業を可能とする社会的な枠組みと、それへの信頼感の共有」だろう。つまりそれって「公共性」と別のことではないんだ。」

柄谷行人他編『必読書150』

「◎『必読書150』で取り上げられた本

人文社会科学
プラトン『饗宴』岩波文庫 アリストテレス詩学岩波文庫 アウグスティヌス『告白』岩波文庫
レオナルド・ダ・ヴィンチレオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫 マキァベッリ『君主論岩波文庫
モア『ユートピア岩波文庫 デカルト方法序説岩波文庫 ホッブズリヴァイアサン岩波文庫
パスカル『パンセ』中公文庫 スピノザ『エチカ』岩波文庫 ルソー『社会契約論』岩波文庫
カント『純粋理性批判岩波文庫 ヘーゲル精神現象学平凡社ライブラリー, 作品社
キルケゴール死に至る病岩波文庫 マルクス資本論岩波文庫 ニーチェ道徳の系譜岩波文庫
ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫 ソシュール『一般言語学講義』岩波書店
ヴァレリー『精神の危機』 フロイト『快感原則の彼岸』ちくま文庫 シュミット『政治神学』未来社
ブルトンシュルレアリスム宣言』岩波文庫 ハイデッガー存在と時間ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ガンジーガンジー自伝』中公文庫 ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』晶文社ラシックス
ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社 アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法岩波書店
アレント全体主義の起源みすず書房 ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房 マクルーハン『グーテンベルグの銀河系』みすず書房
フーコー『言葉と物』新潮社 デリダ『グラマトロジーについて』 ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス河出書房新社 ラカン精神分析の四つの基本概念』岩波書店 ウォーラーステイン『近代世界システム岩波書店
ケージ『ジョン・ケージ青土社 サイードオリエンタリズム平凡社 ベイトソン『精神と自然』新思策社
アンダーソン『想像の共同体』NTT出版 本居宣長『玉勝間』岩波文庫 上田秋成『胆大小心録』岩波文庫
内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫 岡倉天心『東洋の理想』講談社学術文庫
西田幾多郎西田幾多郎哲学論集?・?・?』岩波文庫 九鬼周造『「いき」の構造』岩波文庫
和辻哲郎『風土』岩波文庫 柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫 時枝誠記国語学原論』 宇野弘蔵『経済学方法論』

海外文学

ホメロスオデュッセイア岩波文庫 旧約聖書『創世記』岩波文庫 ソポクレス『オイディプス王新潮文庫岩波文庫 『唐詩選』岩波文庫 ハイヤーム『ルバイヤート岩波文庫 ダンテ『神曲岩波文庫 
ラブレー『ガルガンテュアとパンタグリュエルの物語』岩波文庫 シェイクスピアハムレット』角川文庫、新潮文庫岩波文庫ちくま文庫 セルバンテスドン・キホーテ岩波文庫 スウィフト『ガリヴァー旅行記岩波文庫 
スターン『トリストラム・シャンディ』岩波文庫 サド『悪徳の栄え河出文庫 ゲーテファウスト新潮文庫岩波文庫 スタンダールパルムの僧院』 ゴーゴリ『外套』 ポー『盗まれた手紙』 エミリー・ブロンテ嵐が丘
メルヴィル『白鯨』 フローベールボヴァリー夫人』 キャロル『不思議の国のアリスドストエフスキー『悪霊』
チェーホフ桜の園』 チェスタトン『ブラウン神父の童心』 プルースト失われた時を求めてカフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』 ジョイスユリシーズ』 トーマス・マン魔の山』 ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』 セリーヌ『夜の果ての旅』フォークナー『アブサロム、アブサロム!
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』 サルトル『嘔吐』 ジュネ『泥棒日記』 ベケットゴドーを待ちながら
ロブ=グリエ『嫉妬』 デュラス『モデラート・カンタービレ』 レム『ソラリスの陽のもとに』
ガルシア=マルケス百年の孤独』 ラシュディ『真夜中の子どもたち』 ブレイク『ブレイク詩集』 
ベルダーリン『ヘルダーリン詩集』 ボードレール悪の華』 ランボーランボー詩集』 エリオット『荒地』
マヤコフスキーマヤコフスキー詩集』 ツェランツェラン詩集』 バフチンドストエフスキー詩学
ブランショ『文学空間』

日本文学

二葉亭四迷浮雲』 森鴎外舞姫』 樋口一葉にごりえ』 泉鏡花高野聖』 国木田独歩『武蔵野』
夏目漱石我輩は猫である』 島崎藤村『破戒』 田山花袋『蒲団』 徳田秋声『あらくれ』 有島武郎或る女
志賀直哉小僧の神様』 内田百鐘??w冥途・旅順入城式』 宮澤賢治銀河鉄道の夜』 江戸川乱歩押絵と旅する男
横山利一『機械』 谷崎潤一郎春琴抄』 夢野久作ドグラ・マグラ』 中野重治『村の家』 川端康成『雪国』
折口信夫死者の書』 太宰治『斜陽』 大岡昇平『俘虜記』 埴谷雄高『死霊』 三島由紀夫仮面の告白
武田泰淳ひかりごけ』 深沢七郎楢山節考』 安部公房砂の女』 野坂昭如エロ事師たち島尾敏雄『死の棘』
大西巨人神聖喜劇』 大江健三郎万延元年のフットボール』 古井由吉『円陣を組む女たち』後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』 中上健次枯木灘斎藤茂吉『赤光』 萩原朔太郎『月に吠える』田村隆一田村隆一詩集』
吉岡実吉岡実詩集』 坪内逍遥小説神髄』 北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』 福沢諭吉福翁自伝
正岡子規歌よみに与ふる書』 石川啄木時代閉塞の現状』 小林秀雄『様々なる意匠』 保田與重郎『日本の橋』
坂口安吾堕落論』 花田清輝『復興期の精神』 吉本隆明『転向論』 江藤淳『成熟と喪失』

参考テクスト70
人文社会科学
ルイ・アルチュセールマルクスのために』平凡社ライブラリー レイモンド・ウィリアムズ『キイワード辞典』晶文社
ロジェ・カイヨワ『聖なるものの社会学ちくま学芸文庫 アントニオ・グラムシ『新編−現代の君主』青木書店
スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』河出書房新社 ディドロダランベール編『百科全書』岩波文庫
フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』みすず書房 ヤーコブ・ブルクハルト『ブルクハルト文化史講演集』筑摩書房
フェルナン・ブローデル『歴史入門』太田出版 ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』講談社学術文庫
ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデルエッシャー、バッハ−あるいは不思議の環』白揚社
メルロ=ポンティメルロ=ポンティ・コレクション』ちくま学芸文庫 ユング『変容の象徴−精神分裂病の前駆症状』ちくま学芸文庫 ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件−知・社会・言語ゲーム』白馬書房
G・ルカーチ『歴史と階級意識未来社 浅田彰『構造と力−記号論を超えて』勁草書房 網野善彦『日本社会の歴史』岩波新書 岩田弘『現代社会主義と世界資本主義』批評社 上野千鶴子ナショナリズムジェンダー青土社
大塚久雄『欧州経済史』岩波現代文庫 木村敏『時間と自己』中公新書 遠山啓『無限と連続−現代数学の展望』岩波新書 中井久夫分裂病と人間』東京大学出版 林達夫林達夫セレクション2−文芸復興』平凡社ライブラリー
廣松渉マルクス主義の地平』講談社学術文庫 丸山真男『日本の思想』岩波新書 山口昌男『道化の民俗学ちくま学芸文庫 湯川秀樹『物理講義』講談社学術文庫

文学
エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス−ヨーロッパ文学における現実描写』ちくま学芸文庫
フレデリック・ジェイムソン『言語の牢獄』法政大学出版局
ヴィクトル・シクロフスキー他『ロシア・フォルマリズム論集』現代思潮新社
スーザン・ソンタグ『反解釈』ちくま学芸文庫 ブルーノ・タウト『日本文化私観』講談社学術文庫
ウラジーミル・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』TBSブリタニカ ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』二見書房、ちくま学芸文庫 ノースロップ・フライ『批評の解剖』法政大学出版局 リイス・フロイス「日欧文化比較」『大航海時代叢書<第1期11巻>』岩波書店
稲垣足穂少年愛の美学稲垣足穂コレクション』河出文庫 加藤周一『日本文学史序説』ちくま学芸文庫
柄谷行人日本近代文学の起源講談社文芸文庫 寺山修司『戦後詩−ユリシーズの不在』ちくま文庫
中村光夫『明治文学史』筑摩叢書 橋川文三『日本浪漫派批判序説』講談社文芸文庫
蓮實重彦『反=日本語論』ちくま文庫 平野謙『昭和文学史』筑摩書房 前田愛『近代読者の成立』岩波現代文庫

芸術

アントナン・アルト『演劇とその分身』白水社 グラウト&パリスカ『新西洋音楽史音楽之友社
ケネス・クラーク『芸術と文明』法政大学出版局 レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』ちくま学芸文庫
E・H・ゴンブリッチ『芸術と幻影』岩崎美術社 ギー・ドゥボールスペクタクルの社会平凡社
ジョン・バージャー『イメージ−視覚とメディア』パルコ出版局 ベーラ・バラージュ『視覚的人間−映画のドラマツルギー岩波文庫 ロラン・バルト『明るい部屋−写真についての覚書』みすず書房
バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』鹿島出版会 アンリ・フォション『形の生命』岩波書店
フラー『宇宙船地球号−操縦マニュアル』ちくま学芸文庫 ケネス・フランプトン『モダン・アーキテクチュア』ADA
ニコラス・ヘヴスナー『モダン・デザインの展開』みすず書房 ウィリアム・モリスユートピアだより』岩波文庫
阿部良雄『群集の中の芸術家』ちくま学芸文庫 磯崎新『建築の解体−1968年の建築状況』鹿島出版会
井上充夫『日本建築の空間』鹿島出版会 岡崎乾二郎ルネサンス−経験の条件』筑摩書房
岡本太郎『日本の伝統』講談社現代新書 小泉文夫『日本の音−世界のなかの日本音楽』平凡社ライブラリー
高階秀爾『日本近代美術史論』講談社学術文庫 柳宗悦南無阿弥陀仏−付心偈』岩波文庫
小川環樹木田章義注解『千字文岩波文庫