パスカル『パンセ』前田陽一、由木康訳

パスカルモンテーニュを半年かけて通読していたせいかさくっと読めた。キリスト教の聖書などのこみいった話が中心となる後半はほとんどよくわからなかったが。

ブレーズ・パスカルは、一六二三年、フランス中部山岳地帯の都市クレルモンに生れた。

しかし晩年は激しい病の連続で、遂にその弁証論の完成を見ないうちに、一六六二年三十九歳の若さで他界した。


もうすぐ18世紀がくる。産業革命がくると思いながら読むと色々感慨深い。こうして古典を大股でたどっていくだけでもギリシャラテン語の古典の影響力の大きさ、暗黒時代といわれる時代の言及されうる書物のなさ、徐々にできあがっていく後世の人権や平等という概念の萌芽等、歴史が苦手な自分もようやく世界史をきちんと知るとっかかりを得た気がする。伝記というかそれぞれの古典の著作者が生きていた期間を毎回書くのはその辺の得るものがあるからだったりする。


この本はパスカルキリスト教の正しさと神なき人間の悲惨さを描いたキリスト教弁証論の草稿を、パスカルが完成される前に逝去したのち、さまざまな編者が再構成したものである。実際この本はある意味で編集の勝利といえるような本であり、今読まれているような編集がほどこされなかったら、『パンセ』はこれほど誰もが知る古典にはならなかったかもしれない。


というのは、パスカルキリスト教神学的な議論と、神なき人間の本質を考察したものの大きく二つにわかれる部分が、一般の人にとっては前者は近寄りがたく、後者はわかりやすいということだ。草稿ではこれらが雑然と混じって書かれていたため、一度は出版を断念されたこともあるらしい。それを編集でいくつかのテーマ別にわけ、なじみやすい言わばポップな部分から先に並べていくという編集の上で今読まれている『パンセ』はできたようだ。それが編集の勝利という意味である。


そういう訳で自分が面白く読んだところもわりと前半になるのだが、断章形式というか断片のパスカルの文章を読んで驚くのは、とにかく簡潔にして鮮やかな文章の表現力である。単純に文章がうまい。

 幾何学の精神と繊細の精神との違い。
 前者においては、原理は手でさわれるように明らかであるが、しかし通常の使用からは離れている。したがって、そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ、原理はくまなく見える。それで、歪みきった精神の持ち主でもないかぎり、見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれらの原理に基づいて、推理を誤ることはない。
 ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし、無理をする必要もない。ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそはよくなければならない。というのは、このほうの原理はきわめて微妙であり、多数なので、何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。ところで、原理を一つでも見落とせば、誤りにおちいる。だから、あらゆる原理を見るために、よく澄んだ目を持たなければならず、次に、知りえた原理に基づいて推理を誤らないために、正しい精神を持たなければならない。
 すべての幾何学者は、もしも彼らがよい目を持っていたなら、繊細になれただろう。彼らは自分の知っている原理に基づいては、推理を誤らないからである。また繊細な精神の人々は、慣れない幾何学の原理のほうへ目をやることができたなら、幾何学者になれただろう。
 したがって、ある種の繊細な精神の人々が幾何学者ではないのは、彼らが幾何学の原理のほうへ向くことが全くできないからである。ところが幾何学者が繊細でないのは、彼らがその前にあるものを見ないからであり、また彼らが幾何学のはっきりしない粗い原理に慣れていて、それらの原理をよく見て、手にとったのちでなければ推理しない習慣なので、原理をそのように手にとらせない繊細な事物にぶつかると途方に暮れてしまうのである。このほうの原理はほとんど目に見えない。それらは、見えるというよりはむしろ感じられるものである。それらを自分で感じない人人に感じさせるには、際限のない苦労がいる。それらの事物は、あまりにも微妙であり、多数なので、それらを感じ、その感じに従って正しく公平に判断するためには、きわめて微妙で、きわめてはっきりした感覚が必要である。その際には、たいていの場合、幾何学におけるように秩序立ってそれらを証明することはできないのである。というのは、人はそれらの原理を同じ具合には所有していないし、そのようなことを企てたとしても際限ないことだからである。問題のものを、すくなくともある程度までは、推理の運びによってではなく、一遍で一目で見なければならないのである。そういうわけで、幾何学者が繊細で、繊細な人が幾何学者であるのは珍しい。なぜなら、幾何学者はそれらの繊細な事物までも幾何学に取り扱おうとするからである。そして、まず定義から、ついで原理から始めようとして、物笑いになる。それはこの種の推理の際のやり方ではない。といっても、精神が推理をしないというわけではない。ただ、精神はだまって、自然に、たくまずにするのである。なぜなら、それを表現するのは、すべての人の力を越えており、それを感じるのは、少数の人だけに限られているからである。
 繊細な精神の人々は、それに反して、こうして一目で判断するのに慣れているので、彼らには何もわからない命題が提出され、そこへはいっていくためにあまりに無味乾燥でそんなに詳しく見る癖がついていないような定義や原理を経なければならないとなると、驚きのあまり、おじけづき、いやになってしまう。
 しかし、歪んだ精神の持ち主は、決して繊細でも、幾何学者でもない。
 そこで、幾何学者でしかない幾何学者は、万事が定義や原理によってよく説明されるかぎり、正しい精神を持っている。さもなければ、彼らは歪んでいて、鼻持ちならない。なぜなら、彼らが正しいのは、よく明らかにされた原理に基づく場合だけだからである。
 また繊細でしかない繊細な人々には、彼らが、世間で一度も見たことがなく、また全く使用されていないような思弁的、観念的なことがらの第一原理にまでさかのぼっていくだけの忍耐力を持てないのである。

 雄弁とは物ごとを次のように話す術である。一、話しかける相手の人たちが苦労しないで楽しく聞けるようにする。ニ、彼らがそれに関心をいだき、したがって自愛心にかられて進んでそれについて反省するようにしむける。
 それはすなわち、一方では話しかける相手の人々の精神と心と、他方ではわれわれの用いる思想や表現とのあいだに、われわれがうち立てようと努める対応関係のうちに存するのである。そのことは、われわれが人間の心のあらゆる動機を知るため、次にそれに適応させようと欲する議論の正しい釣合を見いだすために、この人間の心というものを十分研究することを前提とする。われわれの話を聞く人の身になってみることが必要である。そしてわれわれの話に与える言いまわしを自分自身の心でためしてみて、その言いまわしが心に合っているかどうか、また聴き手が否応なしに承服されるようになるだろうとの確信が持てるかどうかを見なければならない。できるだけ単純な自然さのなかにとどまらなければならない。小さいものを大きくし、大きいものを小さくしてはいけない。何かが美しいだけでは十分でなく、それが主題にかない、よけいなものや足りないところがないようでなければならない。

 今ある快楽が偽りであるという感じと、今ない快楽のむなしさに対する無知とが、定めなさの原因となる。

正義、力。
 正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである。
 力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。
 力のない正義は反対される。なぜなら、悪いやつがいつもいるからである。正義のない力は非難される。したがって、正義と力をいっしょにおかなければならない。そのためには正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。
 正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だと言ったからである。
 このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。

敬意とは、「面倒なことをしなさい」である。
それは、一見むなしいようだが、きわめて正しいのである。なぜならそれは、「あなたにそれが必要になった場合には、めんどうなことを喜んでいたしましょう。なぜなら、今だって、あなたのお役に立たないのに、めんどうなことを喜んでしているのですから」と言う訳になる。それに加えて、敬意というものは、高位の人たちを区別するためである。ところで、もし尊敬ということが、安楽椅子に腰かけていることだったら、みなの人に敬意を表することになろう。したがって、区別をしないことになる。ところが、めんどうなことをさせられるために、実によく区別することになるのだ。

 好奇心は、虚栄にすぎない。たいていの場合、人が知ろうとするのは、それを話すためでしかない。さもなければ、人は航海などしないだろう。それについて決して何も話さず、ただ見る楽しみだけだけのためで、それを人に伝える希望がないのだったら。

 人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。原因は、「私にはわからない何か」(コルネイユ)であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界に揺り動かすのだ。
 クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の表面積は変わっていただろう。

人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢をとを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。


まあどれも明快である。ちょっと嫉妬するくらいシャープに書いていると思う。書き写しわすれたが、有名なパスカルの賭けという、死後の世界があるかないかではなければ何もリスクはなく、あるなら生きているときに死後に悲惨な目にあうことをしているのは割りにあわないのであるほうに賭けておいたほうが得であり、不可避であるという一連の議論もでてくる。そこでの無神論者への攻撃の舌の鋭さもすごい。


パスカルキリスト教に救いをもとめない人間に希望がないと考えるので、実に身もふたもなく神なき人間の悲惨を明晰に書く。それがキリスト教を信仰しないひとにまで、現在も刺激を与え続ける認識や表現をしめしていることはとても面白い。