ルソー『社会契約論』桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波文庫

 中高の教科書にでてきてるくらいの印象しかなかったが、最近東浩紀氏が独自の視点で読み直していたりして一部で話題になっている。読んでみると、古典中の古典とあつかわれるのもよくわかる、近代の理念や原理をコンパクトに、表現としても美文というわけではないがとても率直かつ扇動的なまでのエネルギーをもって書かれている。

 解説に「ジャン-ジャック-ルソー(一七一二−一七七八)」とあるように一八世紀のスイスの人である。訳者のまえがきを引用する。

有史以来、人間の精神にもっとも大きな影響をあたえた本として、イギリス労働党の学者キングスレイ・マーチンは、『聖書』、『資本論』、そしてこの『社会契約論』の三つをあげている。民主主義の本質を明らかにした、このルソーの名著は、つとに中江兆民の『民約訳解』によって日本につたえられ、自由民権運動の精神となった。しかし、その後、ルソーの精神は日本で十分に根をはったとはいえない。だから戦後、主権在民という言葉は一とき流行したが、その真意は、覚えぬさきに忘れさられかけている。わたしたちは、もう一度この名著を読みかえして、元気をつける必要があると思う。

「注意を払おうとしない読者にわからせる方法を、わたしは知らないのだ」とルソーもいっている。たとえば、「主権者」(souverain)という言葉は、彼においては、社会契約をむすんで一体となった人民全体のことをさすので、決して一個の人間をさすのではないこと、をつねに頭に入れておかねば、この本はわからない。また「統治者」という言葉にも注意していただきたい。これは《prince》の訳語である。「プランス」というのは、第三編第一章にも定義されており、また『エミール』では、「支配者の全体は、それを構成する人々の面から考察されるとき、統治者プランスとよばれ、また、その行動の面から考察されるとき、政府とよばれる」といっている。つまり、それは国王とか大統領とかいう一個の人間ではなく、集合的にして精神的な人格をさすのである。ただ、ルソーは、このプランスという言葉を、世間普通の、君主という意味に使っているところもあるので、そのさいは「王公」と訳して、「君主」(maonarque)と区別しておいた。《peuple》という言葉は、「人民」「国民」「民族」などと訳せるが、なるたけ統一的に「人民」と訳しておいた。「人民」という言葉は広い意味にとっていただきたい。《magistrat》には前後の関係によって「行政官」と「役人」と二つの訳語を用いてある。索引には原語をつけておいた。


人民主権、自由、平等などの近代民主主義の根本概念を論じ、社会契約や一般意志などの独特の用語で自分の見解をまとめあげたものが、この『社会契約論』のようだ。


ルソーは冒頭からこう宣言する。

政治について筆をとるからには、あなたは君主か、それとも立法者なのか、と聞く人がいるかも知れない。わたしは答えよう。そうではない、また、そうでなければこそ、政治について筆をとるのだ、と。もし、わたしが君主か立法者であったなら、わたしは、なさねばならぬことをしゃべるために時間を空費したりはしないだろう―わたしは、なすべきことを実行するか、それとも沈黙するだろう。
 自由な国家の市民として生まれ、しかも主権者の一員として、わたしの発言が公けの政治に、いかにわずかの力しかもちえないにせよ、投票権をもつということだけで、わたしは政治研究義務を十分課せられるのである。幸いにも、わたしは、もろもろの政府について考えめぐらす度ごとに、自分の研究のうちに、わたしの国の政府を愛する新たな理由を常に見出すのだ。


これはある種のアマチュアであることの宣言としても読める。実際ルソーは職業的な学者というよりは評論家・ジャーナリスト的な知識人という感じがする。そこが文章の表現力にもつながっていると思う。


 最も強いものでも、自分の力を権利に、〔他人の〕服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人でありうるほど強いものでは決してない。ここから最も強いものの権利などというものが出てくる。

暴力は一つの物理的な力である。そのはたらきからどんな道徳的なものが結果しうるか、わたしにはわからない。暴力を屈することはやむえない行為だが、意志による行為ではない。それはせいぜい慎重を期した行為なのだ。いかなる意味でそれが義務でありうるだろうか?

そして、最も強いものがいつでも正しい以上、問題は自分が最も強いものになるようにするだけのことである。ところで、力がなくなればほろんでしまうような権利とは、いったいどんなものだろう?もし力のために服従せねばならぬのなら、義務のために服従する必要はない。またもし、ひとがもはや服従を強制されなくなれば、もはや服従の義務はなくなる。そこで、この権利という言葉が力に附加するものは何ひとつない、ということがわかる。

そこで、力は権利を生みださないこと、また、ひとは正当な権力にしか従う義務がないこと、をみとめよう。だから、いつもわたしの最初の問題にもどることになるのだ。


解説でもいわれているホッブスの影響がたしかにわかる。しかしホッブスよりも簡潔かつ印象深い文体である。


「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。」これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。

 この諸条項は、正しく理解すれば、すべてが次のただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員をそのすべての権利とともに、共同体の全体にたいして、全面的に譲渡することである。その理由は、第一に、各人は自分をすっかり与えるのだから、すべての人にとって条件は等しい。また、すべての人にとって条件が等しい以上、誰も他人の条件を重くすることに関心をもたないからである。
 その上、この譲渡は留保なしに行われるから、結合は最大限に完全であり、どの構成員も要求するものはもはや何一つない。なぜなら、もしも特定の人々の手に何らかの権利が残るとすれば、彼らと公衆の間にたって裁きをつけうる共通の上位者は誰もいないのだから、各人は、ある点で自分自身の裁判官であって、すぐさま、あらゆることについて裁判官となることを主張するだろう。そうなれば、自然状態が存続するであろうし、また結合は必然的に圧倒的になるか、空虚なものとなるであろう。 
 要するに、各人は自己のすべての人に与えて、しかも誰にも自己を与えない。そして、自分が譲りわたすのと同じ権利を受けとらないような、いかなる構成員も存在しないのだから、人は失うすべてのものと同じ価値のものを手に入れ、また所有しているものを保存するためのより多くの力を手に入れる。
 だから、もし社会契約から、その本質的でないものを取りのぞくと、それは次の言葉に帰着することがわかるだろう。「われわれ各々は、身体とすべての力の共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受けとるのだ。」
 この結合行為は、直ちに、各契約者の特殊な自己に代って、一つの精神的で集合的な団体をつくり出す。その団体は集会における投票者と同数の構成員からなる。それは、この同じ行為から、その統一、その共同の自我、その生命およびその意志を受けとる。このように、すべての人々の結合によって形成されるこの公的な人格は、かつて都市国家(シテ)という名前をもっていたが、今では共和国(Republique)または政治体(Corp politique)という名前をもっている。それは受動的には、構成員から国家(Etat)とよばれ、能動的には主権者(Souverain)、同種のものと比べるときは国(Puissance)とよばれる。構成員についていれば、集合的には人民(Peuple)という名をもつが、個々には、主権に参加するものとしては市民(Citoyens)、国家の法律に服従するものとしては臣民(Sujets)とよばれる。しかし、これらの用語はしばしば混同され、一方が他方に誤用される。ただ、これらの用語が真に正確な意味で用いられるとき、それらを区別することを知っておけば十分である。

社会契約の内実がこれであり、ここで一般意志という現実性より理念よりな概念をぶちあげるところがルソーのいまだに問題的なところのようだ。こういうところもどこか日本の文脈でいえば批評家的存在に近い感じがする。


 全体意志と一般意志のあいだには、時にはかなり相違があるものである。後者は、共通の利益だけをこころがける。前者は、私の利益をこころがける。それは、特殊意志の総和であるにすぎない。しかし、これらの特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと*、相違の総和として、一般意志がのこることになる。

* ダルジャンソン候はいう、「各人の利害は、それぞれ相異なる原理をもつ。二つの個別的利害は、第三者の利害との対立によってはじめて合致する」と。彼は、すべての人の利害は、各人の利害と対立することによってはじめて合致する、とつけ加えることもできたであろう。もし利害が異なっていないなら、共通の利害などというものはほとんど感じられないであろう。共通の利害は決して障害にぶっつからず、すべてはおのずから進行し、政治は技術であることをやめるであろう。

 人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに意志を少しも伝えあわないなら〔徒党をくむなどのことがなければ〕、わずかの相違がたくさん集まって、つねに一般意志が結果し、その決議はつねによいものであるだろう。

このようなナイーブとすらいわれそうなポジティブな断言と、


そして統治者が市民に向って「お前の死ぬことが国家に役立つのだ」というとき、市民は死なねばならぬ。なぜなら、この条件によってのみ彼は今日まで安全に生きて来たのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件つきの贈物なのだから。

そして、罪人を殺すのは、市民としてよりも、むしろ敵としてだ。彼を裁判すること、および判決をくだすことは、彼が社会契約を破ったということ、従って、彼がもはや国家の一員ではないことの証明および宣告なのだ。


この社会契約が成立している以上、統治者の命令によって国家のために市民は死ぬ義務を負うとネガティブなところもはっきり断言するあらゆる領域での切れ味のよさがこの書を古典たらしめているのだと思う。
なかなか政治・経済の分野が義務教育レベルでも苦手なので理解等が難しかったためか、もっぱらその文体や表現力、ある種のハッタリや理想のストレートな表現などの力強さに目がいった。