ロック『市民政府論』鵜飼信成訳、岩波文庫


必読書150には入ってないが、ルソーを読むとロックも読みたくなる。ロックを読むとモンテスキューも読みたくなるが、『法の精神』は長いので覚悟がいる。それよりはロックの『市民政府論』は短いので手にとりやすい。


解説からひく。

 ジョン・ロック(John Locke,1632-1704)は、イギリス経験主義哲学の祖として、十八世紀啓蒙主義の出発点に立つ思想家であるが、とくに、その政治思想が、近代的政治原理の基礎を築くために果した役割は、大きい。その政治思想、政治哲学が、まとまった形で展開されているのが、ここに訳出したTwo Treatises of Government,1690.である。(なお訳者の用いた台本の扉にはロンドン、一六八九年印刷とある)。
 この書は、標題の示しているように、二つの論文から成り、それは、著者のいうところによれば、もと一つの大きな論文の、始めと終りとであったという。
 「われらの偉大な再興者、現王ウイリアムの王位を確立すること、彼が、われらの唯一の合法的政府として、キリスト教国のどの君主よりも一層完全かつ明確にもっている権原を、人民の同意によって基礎づけること、そうして、自己の正当かつ自然の権利に対する愛と、これらの権利を守ろうとする決意とが、まさに隷属と滅亡とに瀕していた国を救ったそのイギリスの人民を、世界に向って弁護すること」、すなわちこれである。
 これは、いいかえると、一六八八年のいわゆる名誉革命の、合理的な根拠を提供しよう、ということにほかならない。つまり、すでに行われた行為をジャスティファイしようというのである。ところで右の行為そのものはある程度までは革命的なものであるから、そのような行為がジャスティファイできるものならば、それは、当然、他の国における同じような革命的行為を誘致し、それを弁明するという力をもつであろう。一七七八年、アメリカが、イギリスのきずなを断ち切って、自由と独立を世界に宣言したとき、それを理由づける文書、いわゆる独立宣言の中に、ロックの、とくに本書に現れた思想が、ほとんど文字通りに用いられたのは、当然であった。それは、イギリス革命におくれること、およそ百年であるが、当時の思想化がthe immortal Lockeの名を彼に与えているのも、故なしとしないであろう。

イギリスの17世紀の思想家で、二編の論文からなる書の後者の論文を訳出したのが『市民政府論』のようだ。前者とあわせた完訳版を岩波文庫でださないのはなぜなのだろう(『市民政府論』は初版が1968年)。


この『市民政府論』についてさらに解説からその趣旨や目的を述べている部分を引用。

 ところで、ロックのこの二論の中、前編は、「サー・ロバート・フィルマーと、その追随者たちとの誤った諸原理と根拠とを、見抜いて、これをくつがえした」と自ら呼んでいるものであり、後編は、「市民政府の真の起源、範囲および目的」を論じたものである。
 後編におけるロックの所説は、前にもいったように、一七七六年のアメリカ独立宣言の原理的核心となっている。アメリカの独立宣言が、その独立革命を合理化するために述べている政治原理は、要約すれば、次の三点に帰することができる。その第一は、人はすべて、創造主によって、平等に創られ、それぞれ譲るべからざる権利をもっていること。第二には、政府は、この権利を保障するために、被治者の同意によって設けられたものであること。そうして第三に、その自然の結果として、政府を変更廃止することは、人民の権利であること、これである。
 ロックが、本書の中で述べていることは、右の原理の原型である。それはまず、自然状態から分析を始め、そこではすべてのものは平等であることを明らかにし、そうして万人は平等にして独立であるから、何人も、他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない、というのが、理性の法の命ずるところだとする。ところで人は、自分たちの所有を確実に享有し、他の者からの侵害に対して保障され、安楽安全かつ平和な相互生活をすることができるように、協同体を取結び、政府を作ることに同意するようになる。この場合、すべて人は自由平等独立であるから、何人も自分の同意なしに自然状態を離れて、他人の政治権力に服従させられることはない。そうしてもし立法者が、人民の所有を奪い、それを破壊しようとし、彼らを恣意的権力の下に奴隷状態におとそうと試みる場合には、人民は、もはやそれに服従する義務から免れ、彼らの適当と考える新しい政府を設立するじゆうをもつようになるのである。このようにして、ロックは、革命権、抵抗権の理論に、一般的な基礎づけをしようとしたのである。


自然状態、政府・市民社会、抵抗権や革命権というところが主要な論点のようだ。


ここでいう自然状態はホッブスやそれに影響をうけたルソーのような万民の万民にたいする戦争状態とは真逆といいたくなるような概念としてロックは書いている。

四 政治権力を正しく理解し、またその起源を尋ねるためには、われわれは、すべての人間が天然自然にはどういう状態に置かれているのかを考察しなければならない。そうしてそれは完全に自由な状態であって、そこでは自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらないのである。
 それはまた平等の状態でもある。そこでは、一切の権力と権限とは相互的であり、何人も他人より以上のものはもたない。同じ種、同じ級の被造物は、生れながら無差別にすべて同じ自然の利益を享受し、同じ能力を用い得るのであるから、もし彼らすべての唯一の主なる神が、なんらかの明瞭な権利をその者に賦与するのでない限り、互いに平等であって、従属や服従があるべきではない、ということは明々白々であるからである。

どちらかというとこうであるべきという状態を自然状態としているようだ。そしてその自然法は現実的にうまく守られないので自分の権利を譲渡することで政府を設立し、それによって安全や権利を保障するという論理構成になる。


その保障の大きなひとつはやはり所有権で、それの根拠は労働にあるとする。

二十七 たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかも人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が生前が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに付加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有になるのである。それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。この労働は、その労働をなしたものの所有であることは疑いをいれないから、彼のみが、己の労働のひとたび加えられたものに対して、権利をもつのである。少くともほかに他人の共有のものとして、十分なだけが、また同じようによいものが、残されているかぎり、そうなのである。


そして解説のいうところの抵抗権や革命権の話になるのだが、目次の「第十五章 父権的、政治的および専制的権力についての総括的考察」「第十六章 征服について」「第十七章 簒奪について」「第十八章 専制について」「第十九章 政府の解体について」をみてもわかるように、政府の望ましくない状態についていろいろと検討したうえで、かなり保守的というか解説でいわれるほど大胆ではなく限定されたものとして提出されている気がする。

二四三 結論はこうである。各個人が社会を取り結んだ時、これに与えた権力は、社会が存続するかぎり決して個々人に復帰することはなく、いつまでも協同体の手に残るであろう。何故なら、これなしには協同体はあり得ず、国家はあり得ず、それは原始の協定に反することになるから。そうして社会が立法権を、どんなものであれ人間の集会に与え、彼らと彼らの後継者が引き続いてそれをもち、また後継者を定めるについての支持とそうして権限とが与えられている場合、立法権は決して、この政府の存続する間は、人民に復帰することはない。何故なら永久に続く権力をもった立法府を設けることによって、人民はその政治権力を立法府に与えてしまったので、それをふたたび取り戻すことはできないのである。


ロックは論理的に定義や趣旨をコンパクトに書いているので、すっきりとした印象である。これと比べるとルソーの独特な文体がよりはっきりわかる。しかし素養のないせいか、わかりやすくコンパクトなのにどうも大半をすべるように見るだけで読めた感じがしなかった。