道徳の系譜、ニーチェ著、木場深定訳、岩波文庫


解説より。

道徳の系譜』という標題のもとに纏めて公にされた三篇の論文は、ゲーオルク・ブランデスに宛てたニーチェ(1844-1900)自身の書信(一八八八年四月十日付)によると「一八八七年の七月十日から三十日までの間に決意され、執筆され、原稿の整理を終わった。」(中略)いずれにせよ、それが一書として公刊せられたのは、その年の十一月であった。


20世紀をむかえてすぐに死んだ、きわめて有名であり、現在まで最も思想や認識を呪縛している哲学者であり、文学者である。今まで読んだ著作者の中で最も文章の上手い人だ。


特に現代思想ではこの本の内容など知らない人がいないくらいで、「ルサンチマン」「良心の疚しさ」などの言葉はほとんどの思想をかじった者の頭を縛りつけているとすら言いたくなる影響を与えている。


この本を貫くどうしようもないほどの高揚感をもたらす文章とその内容は以下のような絶対的な序列と上下の峻別がなければ成り立たない。

あの高貴と距離との感じ、すでに言ったように、上位の支配的種族が下位の種族、すなわち「下層者」に対してもつあの持続的・支配的な全体感情と根本感情―これが「よい―グート」と「わるい―シュレヒト」との対立の起源なのだ。

このような起源をもつ以上、「よい」という言葉は、あの道徳系譜論者たちの迷信のように、「非利己的な」行為と初めから必然に結びついているわけでは断じてない。むしろ、「利己的」・「非利己的」というあの対立全体が人間の良心をますます強く圧しつけるようになるのは、貴族的価値判断の没落によって初めて起こることなのである。

―いくらか公平に見てそれに附け加えるならば、人間の、僧職的人間のこの本質的に危険な生存形式を地盤として、初めて人間一般は一個の興味ある動物となり、ここで初めて人間の魂はより高い意味において深くなり、かつ悪くなった。

あのユダヤ人たちこそは、恐るべき整合性をもって貴族的価値方程式(よい=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛せられる)に対する逆倒を敢行し、最も深刻な憎悪の(無力の憎悪の)歯軋りをしながらこの逆倒を固持したのだった。曰く、「惨めなる者のみが善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。悩める者、乏しき者、病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり、唯一の神に幸いなる者であって、彼らのためにのみ至福はある。―これに反して汝らは、汝ら高貴にして強大なる者よ、汝らは永劫に悪しき者、残忍なる者、淫逸なる者、飽くことを知らざる者、神を無みする者である。汝らはまた永遠に救われざる者、呪われたる者、罰せられたる者であろう!」と……


貴族的であり、健康である者と、奴隷的であり病気である者との対立。そして後者が歴史的に勝利をおさめ、(ニーチェ的には)悪い意味での革命を起こしてしまった。その勝利の要になったのが「反感―ルサンチマン」や「良心の疚しさ」、「禁欲主義的理想主義」である。

少なくとも確実なことは、≪この標のもとに≫〔コンスタンティヌス大帝の標語〕イスラエルがその復讐とあらゆる価値の転倒とによって、これまで幾たびとなくあらゆる他の理想に対して、あらゆる貴族的理想に対して凱歌を奏してきたという事実である。

―道徳上の奴隷一揆が始まるのは、≪反感≫ルサンティマンそのものが創造的になり、価値を産み出すようになった時である。ここに≪反感≫というのは、本来の≪反動≫レアクション、すなわち行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけるような徒輩の≪反感≫である。すべての貴族的道徳は勝ち誇った自己肯定から生ずるが、奴隷道徳は「外のもの」、「他のもの」、「自己でないもの」を頭から否定する。そしてこの否定こそ奴隷道徳の創造行為なのだ。

そろそろ結論をつけよう。「よいとわるい」グート・シュレヒト「善と悪」グート・ベーゼという二対の対立した価値は、幾千年の長きにわたる恐るべき戦いを地上において戦ってきた。そして確かに第二の価値が長らく優勢を占めてきているとはいえ、しかも今もってなおその戦いが決着をつけられずに戦い続けられている場所がなくはない。

健忘は一つの力、強い健康の一形式を示すものであるが、(中略)今やそれと反対の能力を、すなわちある場合に健忘を取り外すことを助けるあの記憶という能力を習得した、―ここにある場合とは、約束をしなくてはならない場合のことだ。

再び脱却したくないという能動的な意欲であり、一旦意欲したことをいつまでも継続しようとする意欲であり、本来の意志の記憶である。

一個の約束者として未来としての自己を保証しうるようになるためには、人間は自らまずもって、自己自身の観念に対してもまた算定し得べき、規則的な、必然的なものになることをいかに必要としたか!

これこそは責任の系譜の長い歴史である。

責任という異常な特権についての誇らしい知識、この稀有な自由の知識、この自己と運命とに対する力の意識は、彼の心の最も深い奥底まで沈下して、本能に―支配的な本能になっている。―彼にしてもしそれを表わす言葉が必要になるとすれば、彼はそれを、この支配的本能を何と呼ぶであろうか。疑いもなく、この独裁的人間はそれを彼の良心と呼ぶのだ……

 しかしあのもう一つの「暗い事柄」、すなわち負い目の意識「良心の疚しさ」なるものは、一体いかにして世界に現れたものであるか。

 繰り返して問うが、いかにして苦しみは「負い目」の補償となりうるのであるか。苦しませることが最高度の快感を与えるからであり、被害者が損失ならびに損失に伴う不快を帳消しにするほどの異常な満足感を味わうからである。

残忍なくして祝祭なし。人間の最も古く、かつ最も長い歴史はそう教えている―そして、刑罰にもまたあんなに多くの祝祭的なものが含まれているのだ!――

その反面において、良心の上に「良心の疚しさ」の発明を有する者は一体誰であるか。諸君のすでに察知している通り、それは―≪反感≫をもった人だ!

敵意・残忍、迫害や襲撃や「良心の疚しさ」の起源である。

ここでは内面的に、小規模に、卑小に、後向きに、ゲーテの言葉を借りれば「胸の迷路」のうちで、良心の疚しさを創り出し、消極的な理想を築き上げる。この力こそまさしくあの自由の本能(私の言葉で言えば―力への意志)なのだ。

良心の疚しさのみが、ただ自己虐待の意志のみが、非利己的なものの価値に対して前提の役目を果たすのである、と。

人間意志は一つの目標を必要とする、―そしてそれは欲しないというよりは、まだしも無を欲する。

というのは、禁欲生活とは一つの自己矛盾だからである。すなわち、ここには一つの比類なき≪反感≫が支配している。

ここには力の源泉を塞ぐために力を使用しようとする一つの試みがなされている。ここには嫉妬深い陰険な眼が生理的繁殖そのものに対して、殊にその表現に対して、美しさに対して、悦びに対して向けられている。そしてその一方、奇態や萎縮に対して、苦痛に対して、不幸に対して、醜悪に対して、自発的な損傷に対して、自己棄却・自己懲罰・自己犠牲に対して一種の愉悦が感じられ、かつ求められる。

しかもこの分裂は、こうした苦しみにおいて自己自身を享楽し、のみならず自己自身の前提たる生理的生活力の減衰とともにいよいよ自信をえ、ますます勝ち誇るようになる。「断末魔の苦しみのうちの凱歌」―この最上級の標章のもとに禁欲主義的理想は昔から戦ってきた。誘惑のこの謎のうちに、狂喜と苦悶のこの像のうちに、禁欲主義的理想はその最も明るい光を、その救いを、その最後の勝利を認めた。≪十字架クルクス、胡桃スクス、光ルクス≫―これが禁欲主義的理想においては一つになっている。―


ニーチェが否定するものは現在のほとんどの良識である。対してニーチェが称揚するものは一つの倫理である。そして私はあまり極論になるのはいけないと思いつつも、ニーチェほどの倫理とそれに力を与える文章力=認識を示す力をもたない人間が軽々しくニーチェの言葉を使って何かを裁断する姿を何より醜悪だと思う。