自分以外のはしごだけ外したい人々


日々、ネット上の興味深いソースを紹介し、自分でも様々な話題について力の入った論考をアップしている人文系ニュースブログ「成城トランスカレッジ!」のchiki氏が5月2日に「こういうご都合主義はちょっとイヤなのだ」というエントリーを書いている。


ここでchiki氏は「そもそもある種の差別が、特定の思想や立場や人物などに対しては例外的に容認されるかのようなムード自体に反対で、そのようにご都合主義的に振舞うことは極力禁欲したい」という立場で、福井県生活学習館からフェミニズムに関連しそうな150冊の本が撤去されたというニュースを喜ぶ人達を批判している。


この原理的な立場も各論も私はまったく賛成で、このニュース自体を知らなかったことも含め有益だった。

しかしこのエントリーの後半について、論理的におかしいということではないが、chiki氏がとる立場を表明している表明の仕方自体に対する違和感を表明しておく必要があると思い、書く。


chiki氏は以下のように言う。

でも、そういうレトリック(引用者注・相手に不正確だろうが関係なくネガティブなラベリングをしていく不毛な言論パフォーマンスのこと)を避けて議論に参加するとき、例えば「他者との共生」という性質をパブリックな場に確保するべし、とする価値を選択する立場からの倫理的な批判というよりは、「その場合の合理性って実は限定的な合理性だよね」と、論者の言説と実践との乖離、あるいは論者の言説と効果との乖離がもたらすシニカルな論理的帰着について指摘するいうスタイルを選ぶように今はしている。

ここでchiki氏は、氏の言葉でいうところの「象徴空間においてイデオロギーのパワーゲーム」において自分がどういう戦略で戦うかを表明している。


その戦略とはつまり相手の言っていることとやっていることの違いを指摘し、相手のある目的を達成するために行っていることが逆に相手の目的成就を失敗させる行動であることを明らかにするというものである。正しい揚げ足とりと言ってもいいし、批判の基本と言ってもいい。この戦略自体はオーソドックスなものであり特に異論や批判はない。chiki氏は具体的なエントリーでもこのような戦略をそれなりに効果的に実践していると思う。


しかしこのエントリーだけを見ると、議論において相手のメタに立ち、相手のはしごを外して議論に勝つというだけで、それ以上のことはやらないという風にchiki氏が宣言しているようにも読める。


それ以上のこととは、端的に相手の立場を批判しその立場の土台を崩すだけでなく、議論されている問題に対して自分の立場を表明してよりベターな提案を行い、その賛同を得るように説得するという行動だ。つまり自分もはしごを外されかねない立場に立って、その立場の正当性・有効性を説得的に論じるということである。


chiki氏のこのエントリーだけ読めば、そのようなはしごを外される立場になりにくい比較的中立というか、メタに立って認識をしようとする位置が自分のいるところだと嘯いて、人の相対化ばかりをしようとするメタ厨紙一重なのではないかと懸念されるところがある。もちろんそういう立場であってもいいが、それならば結局論じられている問題に対して、よりよい解を議論の中で生み出していこうとするのではなく、ただ解を出そうと試みる人のはしごを外して喜んでいるだけ、という不毛なことになる危険もある。ちなみに私自身は議論においては自分が主張する解のある状態で参加するという立場をとっている。


もちろんchiki氏が「ジェンダーフリーとは」のような明確にその人の政治的な立場が読み取れるサイト作るなどの実践をしていることを知らないわけではない。つまりchiki氏自体は今のところ上記のような懸念には当てはまらない。しかし、このエントリーを独立して読めば、結局人のはしご外しだけを喜ぶ人達=議論・実践を不毛にしてしまう人達をそれこそ喜ばせてしまうような隙があると思われる。そのためそういう部分に対する違和感を表明させていただいた。