スピノザ『エチカ 倫理学』畠中尚志訳、岩波文庫


スピノザははまる。読んだあと本文をある程度パソコンに打ち込むのだが、けっこうな量をうちこんでしまった。よくわからないところも多いし叙述形態もけっして得意なものではないのだが、そういう人はけっこういそうな気がする。

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632年11月24日 - 1677年2月21日)はオランダの哲学者、神学者


解説にスピノザの生涯の叙述がなかったのでウィキペディアから引用。パスカルと同時代人なのか。


スピノザの主著である『エチカ』はそのタイトル通り倫理学の書だが、神の証明からはじまることからもいわゆる汎神論(神=自然)の論理をとった神学の書でもあり、神・精神・感情・人間と理性・倫理を統一的に体系づける野心的な哲学でもある。


『エチカ』で誰もがその特長としてあげるだろうものがその幾何学的な叙述形態である。といっても今ひとつ幾何学的というのがどんなものかあいまいなのだが。しかし以下の引用を見ればどんなものかはわかる。

第一部

神について

定義

一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。
ニ 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。
三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。
六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで「絶対に無限な」と言う。なぜなら、単に自己の類においてのみ無限なものについては、我々は無限に多くの属性を否定することができる<(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)>が、これに反して、絶対に無限なものの本質には、本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである。
七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である。あるいはむしろ強制されると言われる。
八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。
説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されえないからである。たとえその持続を始めも終わりもないものと考えられる。

公理

一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。
ニ 他のものによって考えられえないものはそれ自身によって考えられなければならぬ。
三 与えれた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能である。
四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。
五 たがいに共通点を持たないものはまたたがいに他から認識されることができない。すなわち一方の概念は他方の概念を含まない。
六 真の観念はその対象〔観念されたもの〕と一致しなければならぬ。
七 存在しないと考えられうるものの本質は存在を含まない。

定理三十三 物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。
証明 なぜなら、すべての物は与えられた神の本性から必然的に継起し(定理十六により)、かつ神の本性の必然性によって一定の仕方で存在し・作用するように決定されている(定理二十九により)。だからもし物が異なったものになるということがありうるとしたら、神の本性もまた現に在るのとは異なったものになりうるであろう。そこで(定理十一により)この異なった神の本性もまた同様に存在しなければならぬであろう。したがって二つまたは多数の神が存在しうることになるであろう。これは(定理十四の系一により)不条理である。それゆえに物は他の仕方、他のいかなる秩序においても云々。Q・E・D・
備考一 私はこれで、物自身の中にはその物を偶然であると言わしめるような何ものの絶対に存在しないということを十二分に明白に示したから、ここに私は、偶然ということをどう解すべきかを手短かに説明しよう。しかしその前に、必然および不可能ということをどう解すべきかを語ろう。ある物が必然と呼ばれるのは、その物の本質に関してか、それとも原因に関してかである。何となれば、ある物の存在は、その物の本質ないし定義からか、それとも与えられた起成原因から必然的に生起するからである。次に、ある物が不可能と呼ばれるのも、やはり同様の理由からである。すなわちその物の本質ないし定義が矛盾を含むか、それともそうした物を産出するように決定された何の外的原因も存在しないからである。これに反して、ある物が偶然と呼ばれるのは、我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。すなわち、その本質が矛盾を含むことを我々が知らないような物、あるいはその物が何の矛盾も含まないことを我々がよく知っていてもその原因の秩序が我々に分からないためにその物の本質について何ごとも確実に主張しえないような物、そうしたものは我々に必然であるとも不可能であるとも思われないので、したがってそうした物を我々は偶然とか可能とか呼ぶのである。


Q・E・D・とは「これが証明されるべきことであった」という意味のラテン語の頭文字で数学の証明などの末尾によくつかわれるらしい。まあこのように定義・公理・各定理とひとつひとつ積み上げながら自らの哲学を論証していくスタイルをスピノザはとっている。このようなものを読んだことがなかったのではじめは面食らったが、一番はじめの定義に、「自己原因」について述べるなど、神と人間のすべてを解明しようとする書でまず「自己原因」という切り口ではじめ、完全に「自己原因」的なものが「実体」と呼ばれ、「自由」であるという点からはじめようとするその着想にやはり驚きその知性のするどさに慣れない叙述形式であってもひきこまれてしまった。


スピノザは完全に自己原因的な実体をすなわち神として、それは人格をもった一存在などではないとした。

以上をもって私は神の本性を示し、その諸特質を説明した。すなわち神が必然的に存在すること、唯一であること、単に自己の本性の必然性のみによって在りかつ働くこと、万物の自由原因であること、ならびにいかなる意味で自由原因であるかということ、すべての物は神の中に在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないまでに神に依存していること、また最後に、すべての物は神から予定されており、しかもそれは意志の自由とか絶対的裁量とかによってではなく神の絶対的本性あるいは神の無限の能力によること、そうした諸特質を説明した。さらに私は、機会あるごとに、私の証明の理解を妨げるような諸偏見を取り除くことに努力してきた。しかしまだ少なからぬ偏見が残っていて、人々が私の説明したしかたで物の連結を把握することを同様に、いな、きわめてはなはだしく、妨げえたしまた現に妨げえているのであるから、それらをここで理性の検討にゆだねることはむだではないと思うのである。


つまり唯一の自己原因である実体から万物はうまれる。そのような実体とは宇宙からなにからふくめたすべてとしての自然そのものでしかありえない、というのが汎神論と呼ばれる理由らしい。だからしばしばスピノザが東洋的、仏教的世界観だとかいわれたりするのだろう。しかしそれにしてもそれを自己原因という概念から説き起こし、自己原因的であることを自由とよぶという知的な力技はすさまじい。このような神のとらえかたであれば、無神論者ですら受け入れざるをえないようなものになっている。なにしろ自然のすべては自己原因的にすべてはっきり万物の様相や変化のなりたちが決まっているが、完全に自己原因的でありえない人間などはその因果をはっきり見切ることができないため、偶然や人格をもった神など人工的な嘘話をつくって納得しようとするというわけだからだ。


スピノザはそこでできるだけ人間が理性をもちいて自己原因的であろうとすること、自由であろうとすること、具体的には世界の因果をできるだけ認識してまちがった神話や通念にまどわされずに知ろうとしていくことそのものを徳であり、至福であり、倫理であるという。

定理三六 徳に従う人々の最高の善はすべての人に共通であって、すべての人が等しくこれを楽しむことができる。
証明 有徳的に働くとは理性の導きに従って行動することである(この部の定理二四により)。そして理性に従って我々のなすすべての努力は認識ということに向けられる(この部の定理二六により)。それゆえ(この部の定理二八により)徳に従う人々の最高の善は神を認識することである。そしてこれは(第二部定理四七およびその備考により)すべての人々に共通である善、かつすべての人間が本性を同じくする限り等しく所有しうる善である。Q・E・D・
備考 だがあるいは次のように尋ねる人があるかもしれない。徳に従う人々の最高の善がもしすべての人に共通でなかったとしたらどうであろう。その場合にはそれから、前の場合のように(この部の定理三四を見よ)、理性の導きに従って生活する人間、言いかえれば(この部の定理三五により)本性上一致する限りにおける人間が、相互に対立的であるというようなことが起こりはしないだろうかと。こうした人に対しては次のことが答えとなるであろう。人間の最高の善がすべての人に共通であるということは偶然によるのではなくて、理性の本性そのものから生ずるのである。なぜなら、この最高の善は理性によって規定される限りにおける人間の本質そのものから導き出されるからである。そして人間は、この最高の善を楽しむ力を有しないとしたら、存在することも考えられることもできないであろう。神の永遠・無限なる本質について妥当な認識を有することは人間精神の本質に属するのであるから(第二部定理四七)


これは哲学やある種の文学など真・善・美・利などの諸価値のなかで認識(真)をもっとも重視するひとにとってはとても喜ばしい結論だろう。


ちなみにスピノザの三章の感情論は面白い。人間の感情を喜び・悲しみ・欲望の三要素の組み合わせですべて解明できるとして、実際何十もの感情を「証明」している。これは何となくTRPGなんかのゲームでの心理的なかけひきとかに応用できないかなとか思ってしまうくらい形式化されていて、なかなか実感にもあっていて盛り上がった。