ハンス・アビング『金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか』山本和弘訳


柄谷行人の書評(http://book.asahi.com/review/TKY200702270223.html)などで興味をひかれ読んだ。岡田暁生西洋音楽史』もそうだったが、目から鱗の指摘を読み進みながら同時に以前から直観はしていたがううまく言葉にできず居心地のわるさを感じていた問題をついにいってくれたという喜びをあたえてくれる本だった。


オランダの経済学者にしてアーティストの著者は、なぜこんなにも多くのひとが経済学者としてみればあまりにもリスクの高くリターンのないアーティストとしての職業にこだわり長くそこに居続けるのか?という疑問から出発し、結果としてこの本は芸術というものがいまもって持つ神話を解体し、しかし同時にその神話が必要とされる理由も明るみにだすものになった。


この本の中で展開される議論を著者は109のテーゼにまとめており、その他にも「芸術の神話体系」といったリストが多く並ぶ。著者が自分の議論をかみくだきわかりやすく形式化することでより多くの議論にひらいていきたいという意識のあらわれのようだ。その「芸術の神話体系」を引用してみる。

芸術の神話体系

1 芸術は神聖である。
2 芸術を通じてアーティストと芸術消費者は神聖な世界とかかわる。
3 芸術は縁遠くて余計なものである。
4 芸術は贈与である。
5 アーティストには天賦の才がある。
6 芸術は一般の利益に奉仕する。
7 芸術は人々のためになる。
8 アーティストは自律的である。すなわち、他の職業は自律的ではない。
9 芸術には表現の自由がある。
10 芸術作品は本物であり、アーティストはその唯一の創造者である。他の職業にはそのような本物らしさはない。
11 本物の作品創造は果てしない個人的満足を与える。
12 アーティストは無私で芸術に奉仕する。
13 アーティストはひたすら内的に動機づけられている。
14 金銭と商取引は芸術の価値を貶める。
15 コストと需要から解放されたときにのみ、芸術的な特質が生まれる。
16 アーティストは耐えなければならない。
17 才能は生まれつきのもの、あるいは神が授けたものである。
18 誰もが才能に恵まれるチャンスを平等に持っている。
19 芸術的才能はそのキャリアの終盤になって初めて現れる。
20 ずば抜けた才能は稀なので、アーティストを蓄えた巨大なプールがあって初めて、ごくわずかの飛び抜けた才能あるアーティストを社会に供給することができる。
21 成功は才能ともっぱら献身にかかっている。
22 芸術は自由である。他に職業に厳然としてある障壁はない。
23 成功したアーティストには独学の者もいる。
24 天賦の才、献身、平等なチャンスが芸術にはある。すなわち、最高の者が勝ち残る。
25 数人のアーティストが稼ぐ高額な収入は正当なものである。


どれも多くのひとがなんだかんだいって同じようなイメージを芸術やアーティストに対してもっているのではないだろうか。著者はこれらの神話がまさに神話でしかないことをひとつひとつ論証していく。しかしその論証から浮かび上がるのはむしろそのような芸術の神話が必要とされる現実がそうそう変わらないであろうという見通しである。

十九世紀の初頭、アーティストはブルジョアに次いで、ボヘミアン(自由業)として登場してきた。最初は、これらのボヘミアン・アーティストはそれほど重要ではなかったが、十九世紀末にその数は増大し、二十世紀初めにはどこにでも見受けられるようになった。現在では、ボヘミアン・アーティストはほとんどのすべてのアーティストの典型となっている。このような典型に対抗し、新たなモデルをつくろうとする(ポストモダンの)アーティストにとってさえ、この古い典型は参照対象であり続けている。
アーティストは自らの独自性と本物であることを証明できる唯一の人種であったし、いまもそうであり続けている。日常生活においては、ブルジョワジーボヘミアン・アーティストに蔑みの目をむけ、嫉妬を増大させながらも、成功したアーティストと芸術に対しては尊敬の念も増大させてきた。成功したアーティストは本物をつくり出す唯一の製作者と見なされる。真のアーティストは、いまも昔も天才なのである。このような芸術の崇拝は、二十世紀になるとより重要性を増してくる。


市民階級のライフスタイルから逃げ出したいと思っている人々に、ボヘミアン・アーティストは手本を示した。最近では、それは計算、効率性、合理性が支配する商業、テクノロジー、科学からの逃避であるように見える。贈与の領域に属することによって、芸術はこれらの世界と袂を分かっている。
 一方で、芸術は対案を提供する。テクノロジーと消費が支配する世界では、芸術はもうひとつのよりよい世界を重い起こさせると多くの人々が考えているとしても、それほど驚くことではない。無数の若者が他の職業の支配から逃げ出し、自分の個性を誇示するために、アーティストになりたいと思うのは自然なことである。若者たちがそうするのは、芸術の高いステータスを分かち合いたいと望むからでなく、普通の職業では見い出すことのできない個人的満足を、芸術製作がもたらしてくれることを期待しているからである。
 その一方で、あまりに合理的で、あまりに商業的で、あまりに工業技術的と多くの人々に考えられている社会において、芸術は反発力としても機能している。したがって、芸術は現代社会の合理的活動に対する当たり障りのない対案なのではなく、これらの活動を必然的に補完するものである。社会における計算、合理性、効率性の不健全な発展を相殺する可能性を芸術は持っている。このように対立する芸術と合理性は互いの存在を脅かしているが、両者はともに生き残る必要もある。

十八〜十九世紀の産業革命以降、その圧倒的な現世利益(稲葉振一郎)によってヘゲモニーを握った科学や「計算・効率性・計算合理性」ら重視が基本になった社会に対する「ロマンチックな対案」を提供するべく必要とされたのがボヘミアン(自由業)的なアーティストであり、その「ロマンチックな対案」を構成する芸術の神話が二〇世紀にいたってますます強くなり、二十一世紀のいまの強く残り続けている。それは「あまりに工業技術的」と思える社会に飽き足らないひとや、それらから落ちこぼれたひとたちが必要とするそれなしには自分を保てないかもしれない神話なのだ。そこで著者ははっきり芸術をかつての宗教の役割だといってしまう。ゆえにそれは神聖でなければならないのだ、と。そしてそれはむしろ社会の階層の高いものこそがその観念にひかれ、自分を芸術に理解のあるものとして見せたがり、政府も芸術に金を出す。芸術は危険で魅惑的な対案であるようで、むしろ社会の安定に寄与する機能をもつ政府が金を出す意味のある(そして結局は都合よく利用されるだけかもしれない?)装置でもある。


そのような容赦ない分析は、私のような「芸術の神話体系」にナイーヴに染まっているものですらひしひしと感じていた芸術の欺瞞性を解明し、それを私は小気味よく読んだ。同時に少し安心もした。なぜなら著者がその神話解体を徹底的にすればするほど、にもかかわらずありつづける芸術の力が当分なくなることはないだろうと思えたからである。訳者は解説で、日本はオランダと違い芸術にお金をつかわなすぎる、この本をもってもっと助成をふやす問題提起になることを希望しながら、以下のようにいう。

ついでながら、訳者の役割のひとつとして、本書に対する批判も簡単に加えておこう。芸術が神話であることを明らかにした経済学や社会学という学的方法もまた、芸術を対象とする学が確立された十八世紀から二十世紀に確立された学である。したがって、利己的であるという近代的自我が経済と社会を駆動させるインセンティブになる、という近代経済学社会学が本書の大前提となっている。換言すれば、利己的立場をとる経済学は、芸術の持つ利他的性格をより顕在化させるだろう。すなわち、本書での分析によって、いわば神聖ぶった芸術の化けの皮が剥がされた皮が剥がされた格好にもなっているのだが、しかし、そのような偽善的かつ表面的な人間の利己的行為をなおも批評し、その背後にある人間の本来性を開示させるものとしての芸術の存在意義は、本書のアプローチからは見えてこないものである。これは本来の芸術を研究する学の役目である。


つまり、著者のいうことを認めたうえでこそ、より明確なかたちでの芸術の意義を正面から論じられる可能性がひらけたともいえるわけだ。「人間の本来性」などというとひいてしまうような論調が席巻していたときもあるが、むしろそれを徹底的に解体しようとしたこの本によってそのような観念のぬぐいがたさが明らかになっている。それをいかに別の言葉でつむいでいくか。この本の議論を認めながらでも、あるいはこの本を通過して語るからこそその意義や内実を語ることが再びアクチュアルなものとなりうる、そんな気にさせる本であった。