デカルト『方法序説』谷川多佳子訳

古典中の古典といってもいいだろう。はじめて学校などで哲学の話をされるときなど第一にあがっていた名前ではないだろうか。


例によって怠惰にまったく読まないできたのだが、今回読んで驚いた。『必読書150』の順番通り読むと、意外と神学的なもの(『告白』など)の影響力が強かった(今も潜在的に強い?)ことが本を読むことで実感的にわかる感じがあったが、その前提の上でこのデカルトの書を読むと、たしかにそこにある切断、画期的な―近代合理主義と呼ばれるようなものであり、それだけでないものもふくめ―文体の新しさのようなものを感じた。もちろん当時は十七世紀でありデカルトも神の領域を認め、そこまで自分がふみこもうとはしてない。それでも文体によってそれまでとは違った知のあり方を宣言しているように読めた。


通読して印象的なのは、デカルトの意外な謙虚さである。もっともやろうとしていることが壮大なのでかえって嫌味に見える人もいるかもしれないが、それまでの諸学問のよさも認めつつ、しかしそれを見極め、一度捨てて自分のやり方によって一から認識を組み直そうとする軌跡を書いた部分は単に近代合理主義の草分けといったイメージを超えて触発されるものがある。

だが、学校で勉強する教科を尊重しなかったわけではない。わたしは以下のことは知っていた。学校で習う語学(ギリシア語、ラテン語など)はむかしの本を理解するのに必要だし、寓話の楽しさは精神を目覚めさせる。歴史上の記憶すべき出来事は精神を奮い立たせ、思慮をもって読めば判断力を養う助けとなる。すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備がなされたものだ。雄弁術には、くらべるものの力と美がある。詩にはうっとりするような繊細さと優しさがある。数学には精緻をきわめた考案力があり、これが知識欲のさかんな人たちを満足させるのにも、あらゆる技術を容易にして人間の労力を軽減するのにも、大いに役立つことができる。習俗を論じた書物は、いかにもためになる教訓と徳への勧めを数多く含んである。神学は天国に至る道を教えてくれる。哲学はどんなことについても、もっともらしく語り、学識の劣る人に名誉と富をもたらす。そして最後に、これらの学問を、どんなに迷信めいたもの、どんなに怪しげなものでも、ことごとく調べあげたことは、その正しい価値を知り、欺かれないよう気をつけるためによいことである。

 わたしは雄弁術をたいへん尊重していたし、詩を愛好していた。しかしどちらも、勉学の成果であるより天賦の才だと思っていた。きわめて強い思考力をもち、自己の思考をよく秩序づけて明晰で分かりやすいものにする人ほど、たとえ低地ブルターニュ方言しか話せず、修辞学など習っていなくても、自分の主張することをいつもうまく人に納得させることができる。そして着想がいかにも人の意にかない、しかもそれを文飾と優美の限りをつくして表現できる人びとは、詩法など知らなくとも最良の詩人であることに変わりない。
 わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。しかしまだ、その本当の用途に気づいていなかった。数学が機械技術にしか役立っていないことを考え、数学の基礎はあれほど揺るぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを意外に思った。これと反対に、習俗を論じた古代異教徒たち(ストア派)の書物は、いとも壮麗で豪華ではあるが、砂や泥の上に築かれたにすぎない楼閣のようなものであった。かれらは美徳をひどく高く持ち上げて、この世の何よりも尊重すべきものと見せかける。けれども美徳をどう認識するかは十分に教えないし、かれらが美徳という美しい名で呼ぶものが、無感動・傲慢・絶望・親族殺しにすぎないことが多い。
 わたしは、われわれの神学に敬意を抱き、だれにも負けないくらい天国に到達したいと望んでいた。しかし、天国にいたる道はどんな無知な人にも、もっとも学識のある人に劣らず開かれていること、天国へ導く啓示された真理はわれわれの理解力を越えていること、それがきわめて確かなものであると学び知り、そうなると、これらの真理をわたしの脆弱な推論に従わせる勇気などなかっただろうし、それらの真理の検討を企てて成功するには、天からなにか特別な加護を受け、人間以上のものであることが必要だ、とわたしは考えていた。
 哲学については、次のこと以外は何も言うまい。哲学は幾世紀もむかしから、生を享けたうちで最もすぐれた精神の持ち主たちが培ってきたのだが、それでもなお哲学には論争の的にならないものはなく、したがって疑わしくないものは一つもない。これを見て、わたしは哲学において他の人よりも成功を収めるだけの自負心は持てなかった。それに、同一のことがらについて真理は一つしかありえないのに、学者たちによって主張される違った意見がいくらでもあるのを考えあわせて、わたしは、真らしく見えるにすぎないものは、いちおう虚偽とみなした。
 次に、ほかの諸学問については、その原理を哲学から借りているかぎり、これほど脆弱な基礎の上には何も堅固なものが建てられなかったはずだ、と判断した。

 以上の理由で、わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問〔人文学〕をまったく放棄してしまった。

わたしの計画は、自分の思想を改革しようと努め、わたしだけのものである土地に建設することであり、それより先に広がったことは一度もない。自分の仕事が十分気に入って、ここでその見本をお目にかけるといっても、だからといって、これを真似ることをすすめたいのではない。神からもっとゆたかな恩寵を分け与えられた人は、一段と高尚な計画を抱くことだろう。しかし私のこの計画だけでもすでに、多くの人たちにとって大胆すぎるのではないかと、大いに危惧している。かつて信じて受け入れた意見をすべて捨て去る決意だけでも、だれもが従うべき範例ではない。そして世のなかは、この範例にまったく適しない二種の精神の持ち主だけから成り立っているようである。第一は、自分を実際以上に有能だと信じて性急に自分の判断をくださずにはいられず、自分の思考すべてを秩序だてて導いていくだけの忍耐心を持ち得ない人たち。したがってかれらは、ひとたび、受け入れてきた諸原理を疑い、常道から離れる自由を手に入れるや、まっすぐ進むために取るべき小道をたどることはできないで、一生さまよいつづける。第二は、真と偽とを区別する能力が他の人より劣っていて、自分たちはその人たちに教えてもらえると判断するだけの理性と慎ましさがあり、もっとすぐれた意見を自らは探求しないで、むしろ、そうした他人の意見に従うことで満足してしまう人たちである。
 そしてわたし自身、今までにただ一人の師しか持たなかったなら、あるいは、どんなにすぐれた学者たちの意見にもつねに相違があったことを知らなかったなら、疑いなく第二の部類に入っていただろう。けれども、学院にいたころから、どんない風変わりで信じがたいことを想像しようとも、哲学者たちのだれかによって言われなかったようなことは一つもないのを学び知った。またその後、旅をして、次のことを認めていった。わたしたちとまったく反対の意見をもつすべての人が、それゆえに野蛮で未開だというわけではなく、それどころか、多くの人がわたしたちと同じかそれ以上に、理性を働かせていることだ。(中略)結局のところ、習慣や実例のほうが、どんな確実な知識よりもわたしたちを納得させているが、それにもかかわらず、少しでも発見しにくい真理については、ただ一人の人がそういう真理を見つけだしたというほうが、国中の人が見つけだしたというより、はるかに真らしいから、賛成の数が多いといっても何ひとつ価値のある証拠にはならない。

 まだ若かった頃(ラ・フレーシュ学院時代)、哲学の諸学問のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数を、少し熱心に学んだ。この三つの技術ないし学問は、わたしの計画にきっと何か力を与えてくれると思われたのだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。まず論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、未知のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり余計だったりするものが多くまじっていて、それらに選り分けるのは、まだ下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を彫り出すのと同じくらい難しい。次に古代人の解析と現代人の代数は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことにだけ用いられている。そのうえ解析はつねに図形の考察に縛りつけられているので、知性を働かせると、想像力をひどく疲れさせてしまう。そして代数では、ある種の規則とある種の記号にやたらにとらわれてきたので、精神を培う学問どころか、かえって精神を混乱におとしいれる、錯覚で不明瞭な術になってしまった。以上の理由でわたしは、この三つの学問の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければ、と考えた。法律の数がやたらと多いと、しばしば悪徳に口実をあたえるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。
 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。
 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。
 第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわかる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
 きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も達成する。それはわたしに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだと、すでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で心理を探究してきたすべての人びとのうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実の明証的な論拠)見出しえた数学者だけであったことを考えて、わたしは、これらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった。


長い長い引用だが、どれも明晰で名文すぎて自分がこれを要約説明しようとすることが恥ずかしくなるようなものである。四つの規則を見出すまでの諸学問の総括は簡潔にして鋭い。数学を基礎にした四つの規則はまさに科学の土台にしておそらく人文学や批評といった領域にもいまだにインスパイアされるものがある含意がある。


これらの規則を提示した上で、著者は有名な形而上学のテーゼを述べる。

だが当時わたしは、ただ真理の探究にのみ携わりたいと望んでいたので、これと正反対のことをしなければならないと考えた。ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わた
しの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。こうして、感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純なことがらについてさえ、推論を間違えて誤謬推理(誤った推論)をおかす人がいるのだから、わたしもまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、以前には論証とみなしていた推理をすべて偽として捨て去った。最後に、わたしたちが目覚めているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現れうる、しかもその場合真であるものは一つもないことを考えて、わたしは、それまで自分の精神のなかに入っていたすべては、夢の幻想と同じように真でないと仮定しよう、と決めた。しかしそのすぐ後で、次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する〔ワレ思ウ、故ニワレ在リ〕」というこの真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。
 それから、わたしとは何かを注意ぶかく検討し、次のことを認めた。どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由もなくなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本章は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。


コギト、心身二元論等々といわれる考察である。今見ると現象学的な考察でもあり、この結論が出るまでの思索の暗中模索をシュミレーションしてみたくなる。


訳者の解説から著者の一生をふりかえってみる。

ルネ・デカルトは一五九六年にフランスのトゥーレーヌ州ラ・エに生まれた。(中略)父はブルターニュのレンヌ高等法印評定官で、階層的には法服貴族であった。デカルトもそうした貴族の子弟として、イエズス会系の名門校ラ・フレーシュ学院に入学し、八年間人文学とスコラ学を中心に学んだ。さらに一年間ポワチエ大学で医学と法学を学び、法学士号を取得した。学校生活を終えたあとの足取りは不明だが、その後志願士官として、一六一八年にオランダ、一六一九年ドイツに赴く。オランダでは科学者ベークマンと知り合い、数学を自然学に適用する構想を得、流体の圧力や、落下法則について共同研究を行った。ドイツでは冬にノイブルクに駐屯中、炉部屋で思索を重ねて、学問の普遍的方法を見いだし、あらゆる学問を統一する見通しを得、この仕事に一生を捧げる決心をした。
(中略)
一六二八年、研究と思索に自由に集中することを求めてオランダへ移り住む。オランダ滞在のはじめ九ヶ月、形而上学に専念し、その見通しを得る。ついで、ローマで観察された幻日現象の報告を機に、自然学全体を秩序立てて調べようと『世界論』を執筆したのだが、ガリレイの断罪によって刊行を断念した。そしてその代わりに三つの科学論文を、『方法序説』を序文として付け、一六三七年に刊行したのであった。
 以後形而上学の主著『省察』(一六四一年)、自然学を含めた体系の全容を示す『哲学原理』(一六四四年)、心身の結合と道徳を扱う『情念論』(一六四九年)の主要著作が刊行される。一六四九年はじめ、スウェーデン女王クリスティーナの招きをうけ、寒い、凍てつくような国へ行くのを躊躇しつつも、ついにその年の秋ストックホルムへ赴く。そこでは、アカデミー設立の計画をしたり、三〇年戦争終結の祝いのための舞踏劇の脚本を書いたりする。しかし、寒い冬の早朝に女王に講ずるなど、疲労と寒さも重なり、一六五〇年に肺炎で亡くなるのである。


著作は意外に少なく、しかしそれにかけられた時間や推敲の厳しさはどれだけだったのだろうか。その自ら考案した方法は、しかしどこか思想にひかれる者を鼓舞してしまう力がある。

というのも、なるほど人間はだれも、自分の力にかなうかぎり、他人の幸福をはかる義務があり、だれの役にも立たないのは本来何の価値もないのだが、しかしわれわれの配慮は現在よりもずっと先にまで及ぶべきであり、いま生きている人びとに何かの利益をもたらすかもしれないことでも、別のことでいっそう多くの利益を後世にもたらすことをする意図のあるときは、割愛してよいからである。たとえば現に、今までわたしが学んだわずかばかりのことは、わたしのまだ知らないことに比べればほとんど無に等しい、しかもわたしはまだ学びうるという希望を捨てていない、このことを知っていただきたいと思う。というのは、諸学問のなかで少しずつ真理を発見していく人は、金持ちになり始めた人たちが、まえに貧乏だった頃はるかに少ない利を得るのに費やした労力にくらべて、少ない労力で大きな利を得るのと、よく似ているからである。

われわれが真理の認識に到達するのを妨げるあらゆる困難や誤謬を克服しようと努力するのは、まさしく戦うことであり、多少とも一般的で重要なことについて何か誤った意見を受け入れることは、戦いに敗北することである。敗北のあとでは、前と同じ状態に戻るために、確証された原理を手中にして大きな進歩をなすのに必要なよりもはるかに多くの機略を必要とする。

 わたしの思想を伝えることで、ほかの人びとが受けるだろう利益についていえば、これもまたたいしたものではありえない。なぜかというと、わたしはそれらの思想をまだそんなに深く進めてはいないので、実地に応用するまえに、なおたくさんのことを付け加える必要があるからだ。そしてもしそれをできる者がいるとすれば、それはほかならぬわたしであるはずだと、自惚れることなく言うことができると思う。それはこの世に、自分とは比べものにならないほどすぐれた精神の持ち主がそう大勢いるはずがないということではなく、他の人から学ぶ場合には、自分自身で発見する場合ほどはっきりものを捉えることができず、またそれを自分のものとすることができないからである。これは、こうした問題においてはきわめて真実であって、わたしは自分の見解のいくつかを、ひじょうにすぐれた精神の持ち主に説明したことが幾度かあるが、かれらはわたしが話している間はきわめて判明に理解したように見えたにもかかわらず、それをかれらがもう一度述べる段になると、ほとんどいつも、もはやわたしの見解だと認めることができないほど変えてしまっていることに気がついたのである。

この哲学者たちもその時代のもっともすぐれた精神の持ち主だったことから見て、ただかれらの思想が正しく伝えられてこなかったのだと判断するだけである。なおまた、かれらの追随者の一人でも、かれらを凌駕したことはほぼ一度もなかったことも明らかだ。

さらにかれらが、最初は容易なことから探究し始めて、少しずつ段階を経て、ほかのもっと困難なことがらに移っていくこと(第二部、方法の第三規則)によって得られる習慣は、わたしの教示すべてよりもかれらの役に立つだろう。私の場合も、次のように確信している。もしもわたしが若いときからすでに、後になってその論証を探求したすべての真理を人から教えられ、それを知るのになんの苦労もしなかったとしたら、それ以外の真理を知ることはできなかっただろう。少なくとも、真理の探究に専心するにつれて獲得した、たえず新しい真理を見いだす習慣と能力―わたしはそれを現に持っていると思う―を得ることはけっしてなかっただろう。要するに、ほかのどんな人が取り組んでも、それを始めた当人ほどにはうまく完成されない、というような仕事がこの世にあるとすれば、それこそわたしがいま苦労している仕事なのである。

ある種の精神の持ち主は、他人が二十年もかかって考えたことすべてを、二つ三つのことばを聞くだけで、一日で分かると思い込み、しかも頭がよく機敏であればあるほど誤りやすく、真理をとられる力も劣り、かれらがわたしの原理だと思い込んでいることを基礎にして、とほうもない哲学を打ち立てるきっかけをそこから与えないためであり、またその誤りをわたしのせいにされないためである。


これらの孤独な作業が多くの追随者の仕事をものともせず凌駕し意義をもつという議論は、どこか人を駆り立てかえって追随者にしてしまいかねない感染力をもつ感じがする。それがこの書が長く特別な古典としての地位をえてきた要因かもしれない。しかし、このすでにある建物に何かをくっつけていくのではなく、一から建物を組み立てるように、物事を土台から問い直し考えていくという姿勢は、科学にしろ批評にしろ研究にしろ真のオルタナティブを準備するために必要なものであり、そういう仕事をするひとはやはりデカルトのようなあり方をどこかで反復していくのだろう。私はあまり醜くない追随者をめざしてのんびりがんばろうと思った。